たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

#脱成長コミュニズム

ゼロからの「資本論」を読む(その5)

 そろそろこのコーナーも勝手に「まとめ」に入るよ…
ゼロからの資本論_0001
 斎藤幸平氏は本書で、晩期マルクスが独自に「自然科学」や「共同体」の研究をしており、従来の「マルクス主義」でとらえられているものとは違う境地・思想にマルクスは立っていたとする。特に「共同体研究」について、ロシアの農耕共同体「ミール」の研究にいそしみ「ザスーリチ宛の手紙」草稿も引用して
 マルクスが単に資本主義のもとでの近代化を無制限に進めていけばいいと考えていたのではないことは、引用からも明らかでしょう。無限の資本の価値増殖と競争のための技術革新は、「修復不可能な亀裂」を生んでしまう。
 ここで、共同体社会が、伝統に依拠した定常型の持続可能な社会であったことを思い出してください。ということは、西ヨーロッパの社会もそのような社会に移行する必要があると、晩年のマルクスは考えていたのです。(中略)
 繰り返せば、そのような「高次の」共同体社会を実現するために、無限の経済成長は必要ありません。生産力を無限に上げていく必要もないのです。だから私はこれを「脱成長」型経済と呼んでいます。(p196~7)

 と展開してきたのが、前著の「人新世の「資本論」」でも展開された彼の結論なのであるが…
 人新世の「資本論」 (集英社新書) [ 斎藤 幸平 ]
人新世の「資本論」 (集英社新書) [ 斎藤 幸平 ]
 ではどうやったら「脱成長コミュニズム」、あるいは「高次の共同体社会」に到達できるのか、その具体的な方法については斎藤幸平氏ははっきり書いていない。
 本書では「パリ・コミューン」の経験も踏まえ、マルクスの革命観が1848年の「共産党宣言」当時とは変わっていると述べている。「共産党宣言」にはパリ・コミューンについて書いた「フランスの内覧」から引用しながら、1872年の「ドイツ語版の序文」を引用したうえで、次のように展開している。
 ここでは、1848年に執筆された時からの認識の変化が強調されているのがわかるでしょう。『共産党宣言』の段階では、革命によって国家権力を奪取して、その力を社会主義設立のために使えると素朴に考えていた節がありました。けれども、パリ・コミューンの経験を踏まえて、真に平等で、民主的な社会を作るためには、国家権力を使う以外の道を試す必要があると、強調されるようになっているのです。(p205)
 「国家権力奪取の革命」を否定する!ということだ…では「国家権力の打倒」「解体」のための革命ならいいのだろうか?そこのところははっきりしない。
 ただ斎藤氏は「法学幻想」批判を展開しているように、資本主義そのものを国家の力で規制をかけたり、抑制したりする…あるいはソ連・中国がやってきたように生産手段を「国有化」するといった方法を批判し、「できあいの国家」をそのまま利用して、資本主義社会の根源的な変革、そして「脱西洋コミュニズム」に行きつくことはないのであるが…
 ではそうするのか?本書を読む限りでは、「協同組合的生産」がコミュニズムの基礎となるので、人々が生きていくのに必要な必需品、サービスをつくる「労働者協同組合」をつくり、生産に必要な知識や生産手段、生産物を「コモン」として管理していく…それらの協同組合がソーシャルビジネスや自治体ともつながっていくことで、マクロな範囲でアソシエーションを構築していく…世界的に注目を集めている「ミュニシパリズム(地域自治主義)」の国際的ネットワークなどの動き、ローカルなもコミュニティや地方自治体が、グローバルにつながり始めている…こういった「アソシエーション」の拡大・浸食によって、資本主義社会を掘り崩していこう!というのが方法らしい。

 もっともそれでは、これまで「レーニン主義的」に建設されてきた「革命党派」「共産主義党派」にとっては、あまり面白くない結論だろう。では、どうすればいいのか?(つづくよ)

三里塚農業はSDGsで未来を拓く!

 先日、三里塚関西実行委員会から「実行委ニュース」が届いた。一面は「最高裁の請求異議裁判上告棄却弾劾 市東さんの農に生きる権利を奪うな」となっており、二面以下、松原康彦さんの「市東さんの農地強制収用認めた最高裁決定に怒る」という、まさに怒りの記事なのだが(反対同盟の6月13日付け弾劾声明は、こちら)…今回はその話題ではない。
 5ぺージ目から始まる、安藤眞一さんの記事「コロナ禍の困難をのりこえ市東さんの農を守ろう」である。もちろんこの記事も、最初に反対同盟の萩原さんが農作業にいそしむ様子を紹介した後、最高裁の上告棄却を弾劾しているのであるが、後半7ぺージからはこんなことが書かれている。
三里塚農業の営みはSDGsのレジェンド
 地球規模の環境保全活動の最近の言葉としてSDGs(エスディジーズ)があるのをご存じでしょうか。(中略)
 SDGsの17の目標
 1.貧困をなくす
 2.飢饉をゼロに
 3.すべての人に健康と福祉を
 4.質の高い教育をみんなに
 5.ジェンダー平等を実現しよう
 6.安全な水とトイレを世界中に
 7.エネルギーをみんない、そしてクリーンに
 8.働きがいも経済成長も
 9.産業と技術革新の基盤をつくろう
 10.人や国の不平等をなくそう
 11.住み続けられるまちづくりを
 12.つくる責任つかう責任
 13.気候変動に具体的な対策を
 14.海の豊かさを守ろう
 15.陸の豊かさを守ろう
 16. 平和と公正さをすべての人に
 17. パートナーシップで目標を達成しよう
 この17の中で私が思うには、三里塚の皆さんは10~13、15~17の7項目を実践中であり、無農薬・有機栽培の農を続け、産直野菜で多くの皆さんに安心安全な食べ物を供給されています。人にやさしい地球にやさしい活動を何十年もの長期間続けられていると思います。
 そんな三里塚の皆さんこそSDGsのレジェンドだと私は確信しています。地球温暖化を止める闘いこそ三里塚だ、との強い思い入れを込めています。(以下略)

 とある。
 そして次に小見出し以下、
 成田はSDGsに逆行する環境破壊と人権抑圧
 三里塚の闘いこそSDGsの先駆者だと申し上げましたが、逆に成田空港の存在は地球環境を破壊し、三里塚の皆さんや周辺住民の皆さんの生存権、財産権を奪う不正義の存在です。SDGs17項目の3.7.8.10.11.12.13.15.16.の8項目に違反している国策会社ではないでしょうか。(中略)しかも、この決算書の末尾にSDGsを実行するかのように宣言していることは悪徳不動産屋そのものではありませんか。50年に渡って豊かな農地を強奪し、人権を破壊し続けているNAAにSDGsの実効を語る資格はありません。今こそ、反対同盟とともに、国策成田空港のNAAの野望を糾弾してゆきましょう。

 とNAAを弾劾しているのだ!
 それにしても、かつて三里塚闘争そのものが「コミューン」であり、70~80年代の環境問題を解決する未来社会をさぐる実験場でもあると評価する人は多くいたし、今でもいると思う。もちろん”三里塚だけ”がコミューンとして独立し、やっていくことは現代社会では不可能なのだが、権力は三里塚に「革命のヒドラ」…未来社会への入り口…を見たからこそ、前体重をかけて「弾圧」してきたのである。
 三里塚闘争は、未来を拓くのである!

 おまけ…斎藤幸平的にいうと「SDGsはアリバイ作り」「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』」なのであるが、それは「豊かな農地を強奪し、人権を破壊し続けているNAA」がSDGsを平気で語っているところに、それが現れているということなのだ。よって斎藤幸平的に書けば「三里塚農業は脱成長コミュニズムを目指す!」ということになるのだろう。

危機が来るからか、矛盾があるからか?

 30年以上前、大学の黒ヘルさんから「中核派は危機アジりばかり」であると批判していた。彼らが何を言いたかったのかというと、「危機が来るから闘いましょうじゃなくて、矛盾があるから闘う!だろ」ということだ。もっとも革共同(中核派)は「段階・過渡・変容・再編・危機」という世界情勢認識を確立していたから、危機が来るとアジらないわけにはいかんだろう。だがそんな理論なぞ知った事じゃないという人にとっては、危機アジりで闘いを組織するのではなく、ちゃんと現実の矛盾を見なさい!それで組織しなさいという、ある意味道徳的な正しさのほうが大切だということなのだろう。
 現実問題として、帝国主義(資本主義)の危機は様々な形で”乗り越えられ”2020年まで続いているのであるが、ではレーニンが指摘した、あるいは水野和夫氏が指摘した資本主義の危機・終焉が絶対に来ないとは言い切れないだろう。

 それを踏まえた上で、斎藤幸平氏の「人新世の資本論」であるが、基本、最初の3章は「環境問題」「気候変動」危機アジりである…このまま成長を前提とする資本主義が続けば、地球環境は破壊される。そうなっては「先進国」に住む”我々”の生活も危うい…だから「闘いましょう!」脱成長コミュニズムを目指しましょう!という主張である。
 だが、人間活動による二酸化炭素排出量の増大により、地球温暖化=気候変動が進んで大変なことになる!というのはまずないので、斎藤氏の掲げる前提は瓦解するのである!?
 
 ではなぜ斎藤氏の本を長々とレビューしたのか⁉いや、気候変動と言う「危機」が来て私たちの暮らしが危うくなるからではなく、経済成長を前提としたあり方が、斎藤氏のいう「グローバルサウス」に矛盾を押し付けている構造、これは解体しないとイケナイからである。そう「矛盾があるから、闘う!」のである。過去に二酸化炭素は目的でなく、結果だと書いた。そこには。
 大きなことを言えば、石炭火力発電で「二酸化炭素」を出しまくるのは問題ないが、石炭を大量に採掘するインドネシアの現場で、住民の生活が破壊されるなら、そんな発電は止めるべきだ。
 と書いている。
 もちろん、二酸化炭素以外の「環境問題」は、先進国に住む我々にも影響を及ぼす…先のブログ記事でいえば、アマゾンの森林破壊や海洋のプラスチックごみによる汚染である…「危機は来る」ので、斎藤幸平的に人びとを扇動し、オルグすることはある程度可能だろう、だが誤った前提・根拠・理論で人々を組織し、動かそうとすれば、必ず失敗し、しっぺ返しが来るのである。

 ということで、危機が来るからではなく、矛盾があるから、闘う…という精神は、大切にしたいと思う。

社会運動の延長上で国家を変えられるか?

 先日の人新世の「資本論」(その5)記事の中で、斎藤幸平氏の国家観を以下のように”批判”した。

 しかし、気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせないとしている…このへんで、斎藤氏はいまある「国家」をなにか超階級的に、与条件としてある必要なもの、としているようだ。第五~七章で豊かな「脱成長コミュニズム」社会を描いてはいるが、そこに至る過程が「社会運動を頑張って、現行国家に「脱成長コミュニズム」政策を突き付けるという形にしかなっていない感じだ。「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」という、マルクスの国家論の基礎はどうなっているのだろうか?もっともこのあたりを“晩期マルクス”がどう考えていたのか?ということは研究の対象外だったのか、あるいは特に新しいことは見つからなかったのか?
 おそらくMEGA(メガ…世界各国の研究者たちが参加する新しい「マルクス・エンゲルス全集」の刊行事業)に伴うマルクスのノート研究から、マルクス主義国家観の深化・変更点は出てこなかったのか、それとも斎藤氏以外の別の研究者が担当したのかのどちらかなのであろうが、今のところ「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」という点については変更しないでおこう。では「脱成長コミュニズム」社会をつくるためには、どうすれば良いのか?もう少し斎藤氏の言ってることを詳しく見てみよう。
 本書では、〈コモン〉、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基盤になると唱えてきた。だが、それは、国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。(中略)
 その際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参画の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。
 そのためには、国家の力を前提にしながらも、〈コモン〉の領域を広げていくことによって、民主主義を議会の外へ広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある。協同組合、社会的所有や「〈市民〉営化」がその一例だ。(第六章参照)
 同時に、議会制民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない。(中略)
 生産の〈コモン〉化、ミュ二シパリズム、市民議会、市民が主体的に参画する民主主義が拡張すれば、どのような社会に住みたいかをめぐって、もっと根本的な議論を開始できるようになるだろう。(p355~356)
 長々と引用したが、まず「気候変動」対策、脱成長コミュニズム社会をつくるにあたって、インフラ整備や産業転換のために、それなりの”権力行使”が必要だと斎藤氏は考えているようだ。そのために「国家」という、最高の”権力”が(おそらくその暴力装置も含め)必要であるとする。ただ、その国家は既存の「議会制民主主義」や三権分立の下で成り立つ国民国家では”ない”ということなのだろう。
 「市民が主体的に参画する民主主義が拡張すれば」とあるので、私はそれを前回「社会運動」を頑張って、現行国家に「脱成長コミュニズム」政策を突き付けるという形であると”批判”したわけだ。ただよく考えれば、単純に”突き付ける”だけで既存の国家や行政が「脱成長コミュニズム」政策をとるわけは絶対にない!だから斎藤氏のイメージは”突き付ける”のではなく、「(私たちを)参画させる」ということであり、そのための「社会運動」ですよ!ということなのだろう。
 もっとイメージを膨らませば、既存の行政組織の中に、社会運動の力でもって様々な市民が参画できる空間・場をつくること、それによって既成の国家組織、行政組織に穴をあけ、浸食し、解体・変容させていく…それによって既存の”国家”は、マルクスが絶賛した”パリ・コミューン”のような組織に、徐々に変わっていくようなものとして捉えれば良いのだろうか?
 ここにはレーニンがやったような、権力をとにかく奪取して社会をあっという間に作り変える「革命」はない(おそらくこれをやろうとしてガチガチの「党」をつくり、権威主義的な「プロレタリア独裁国家」を作るイメージは「気候毛沢東主義」として斎藤氏は毛頭考えていないだろう)もっとも、市民参加のために議会で法律や条例を通す…というようなことも想定されるので、議会で多数をとって世の中を変革するという、日本共産党的なプロセスは排除されない…ただし、これをやる議会政党のバックには、社会運動がなければならない。

 話は少し手前みそにもなるが、「コロナ補償を求める大阪行動」では、ミナミの街に対する休業要請への謝罪・補償要求行動の中で、吉村大阪府知事宛にこんな要求を突き付けている。
2.過ちを繰り返す府知事独断のコロナ対策を中止し、全市民当事者が参加できる会議を行いそこで決めること。
 もちろん、こんな要求は維新・吉村が納得して認めるわけはないだろうが、コロナ対策がどうしょうもない危機に陥った時、この要求が通って実現すれば、革命的な行政が誕生するわけだ(「全市民当事者」をどうやって選び…「選挙」なのか「くじ引き」なのか…どのように参画していくか…身分、給与・報酬等…の制度設計はまた別にやらないといけない)

 とまぁ、こんなふうに徐々に市民の直接参画…もちろんこれは「直接民主主義」の拡大であって、代議制の拡大ではない…により、既存の国家を食い破り、浸食、変質させる「革命戦略」…非常に政治的、革命的に高度な路線であると思うが、いかがだろうか?

人新世の「資本論」(その3)

 斎藤氏のアグレッシブな論展開が続くぞ
 第五章 加速主義という現実逃避 耳慣れない「加速主義」という言葉が出て来るが、これは持続可能な成長を追い求め、資本主義の技術革新の先にコミュニズムがあるとするもの。環境問題は技術革新によって解決できる、オートメーション化は人間を労働から解放し、宇宙資源採掘の技術!が発達すれば、自然的限界も存在しないというものだ。日本では考えられないが、ヨーロッパの左派の一潮流としてあるようだ。
 もちろん経済成長をそのままにした上での技術革新によって環境問題が解決するということはあり得ない。(宇宙資源採掘をしようとする以前に、地球上の資源を使い切り、環境汚染でにっちもさっちもいかなくなるだろう…エントロピー増大則をきちんと勉強されよ)斎藤氏はこうした楽観的予測こそ、晩期マルクスが決別した「生産力至上主義」の典型であり、「エコ近代主義」として批判している。「加速主義」はそれに向けた変革のプロセスも、議会民主主義の枠内で良いリーダーを選出し、政治家や専門家たちに任せればいいというもので、資本主義の超克という生産関係の根本的変革を政治的な改革によって実現できるというものだ。これも「政治主義」でそんな変革なぞ出来ない、議会政治だけでは民主主義の領域を拡張して、社会全体を改革することはできないと批判する。そして資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張する必要があると説く。その一例として欧米で注目されている「気候市民会議」を挙げる。会議と名前がついているがメンバーは選挙ではなく、くじ引き(抽選)で選ばれる(年齢、性別、学歴、居住地などが実際の国民構成に近くなるよう構成されている)二〇二〇年六月二十一日にボルヌ環境相に提出されたフランスの市民議会は、二〇二五年からの飛行場の新設禁止、国内線の禁止、自動車の広告禁止、気候変動対策用の富裕税導入、憲法への気候変動対策の明記、「エコサイド(環境破壊)罪」導入など、かなりラディカルな内容となっている。そしてこうした「市民会議」は「黄色いベスト運動」や「絶滅への反逆(イギリス)」のような社会運動の成果であるのだそうな。社会運動が、民主主義を刷新し、国家の力を利用できる力があることを証明したとしている。
 政治エリートや技術の専門家に未来を任せることは楽だ、「帝国的生活様式」を変えることなく政治主義に走るのも理解できる。だがそれは私たちがかつてないほど「無力」になっていることの裏返しであって私たちは資本主義なしには生きられないと無意識のうちに感じている、成長を目指し続ける商品経済にいとも簡単に飲み込まれてしまっている…これをマルクスの概念を使って言い換えると「包摂」という(このへんは白井聡氏の「武器としての資本論」にも、新自由主義思想への包摂として取り上げられている)資本によって「構想」と「実行」が分離され、「資本の専制」が完成している。だから新技術の加速を追及するだけなら、「構想」と「実行」の分離をより一層深刻化させ「資本の専制」が強化されるにすぎないのである。
 だが資本主義の生産力や技術発展を拒否するのではない、晩年のマルクスも農耕共同体特有の因習に戻れと行ったわけでもない。今後「再生可能エネルギー」や通信の技術をもっと発展させる必要があるのは、自明であると筆者も述べている(その妥当性は、別…再生可能エネルギー技術や通信の技術もまた、化石燃料を大量に必要とするから)
 フランスのマルクス主義者、アンドレ・ゴルツの最晩年の論考を引き、専門家に任せるだけの生産力至上主義は最終的には民主主義の否定、「政治と近代化の否定」になる。そのうえでそれを避けるために、「解放的技術」と「閉鎖的技術」の区別が重要であるとする。「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術、「閉鎖的技術」とは人々を分離し「利用者を奴隷化し」、「生産物ならびにサービスの供給を独占する」技術を指す。「閉鎖的技術」の代表は原子力発電であり、「エコ近代主義」にもてはやされるジオエンジニアリングやNETといった一見華々しい技術である。これらの技術は、いままで通り化石燃料を燃やす生活を続ける未来を約束するが、このいままで通りの継続こそが不合理だという真の問題を隠蔽してしまう。技術自体が現存システムの不合理さを隠すイデオロギーとなっている。技術というイデオロギーこそが、現代社会にまん延する想像力の貧困の一因といえる。別の社会を思い描けるようになるため、資本の包摂に抗い、想像力を取り戻さなければならない。その源泉がマルクスの「脱成長コミュニズム」であると説く。(つづくよ)

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左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…「鉄道むすめ」から「侵略!イカ娘」、「ガルパン」そして「血小板ちゃん」という謎の進化を遂げる。白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主だが、鉄道・乗り鉄ネタ、完乗闘争の記録も。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
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