10月29日、大淀コミュニティーセンターにて行われた10・29命より金⁉汚リンピックの正体集会に参加してきた。

司会はパク・ヘテさん。中学生の時、オリンピック会場予定地から人が追い出されるというニュースを聞いてオリンピックに疑問を抱いたとのこと。オリンピックは弱い者いじめであると批判された。
オリンピック反対行動の報告として、反五輪学生行動の南さんから報告。京都、亀岡での聖火リレー反対行動では、外国人の参加者に対していきなり職務質問がかけられ、怖いと同時に許せないと思った。こちらの声がスタジアムに届くぐらのデモで、人数が少なかったにもかかわらず好意的な報道がなされた。
7・23東京では、こちらの参加者だとおぼしき人物には、警察が職質をかけたり道をふさいだりとやりたい放題やってきた。学園祭などは中止されているのに、オリンピックだけ開催される差別性に怒りを覚えた。昼は聖火リレーへの抗議に300名、夜は700名ぐらいのデモと一連の行動に参加した。オリンピックおのものを止められなかったし、規制強化・監視カメラだけは残っている。2025年には大阪万博がある。メガイベントの双璧をなすオリンピックと万博、金もうけのために住民の生活が脅かされるのはごめんだと訴えられた。
続いて小笠原博毅さんの「パラレルワールドと資本主義の断末魔」と題した講演である。仮題「東京五輪に見た<安全安心>の監視社会と排除される人たち」からすいぶん離れているが、これは小笠原氏がオリンピック強行後に「反省(この「反省」には大きな意味があるらしい)」して考えたことを述べるということである。
まず今回の反五輪行動を「コロナ」がどうのこうのということに小さくまとめてはいかない。主催者とされる日本国・東京都も実はIOCの「ポチ」にすぎず、いち国際NGOでしかないIOCが、国家主権を凌駕して「あれをしろ、これをしろ」と指図しているのだという本質を述べられた。
IOCの広報部長、マーク・アダムスは「(都内の感染拡大は)パラレルワールド(別世界)みたいなもの、われわれから東京で感染を広げていることはない。われわれは最も検査されたコミュニティー。選手村は一番厳しいロックダウンの制限が取られている」(2021年7月9日)と述べたが、東京で感染は拡大していたし、選手村で選手や関係者も感染していた。「われわれ」のコミュニティーの中で「パラレルワールド」は崩壊していたのである。
だがそもそも、オリンピックはその始まりから「パラレルワールド」を前提にし、「パラレルワールド」を造ろうとしていたのではないか。「オリンピック憲章」オリンピズムの原則7に
「オリンピック・ムーブメントに属するためには、オリンピック憲章の遵守及びIOCの承認が必要である」と書かれている。どれだけスポーツのことが好きで、大切にしていたとしても、IOCが承認しないかぎりオリンピック運動としては認められないのである。
承認は「分断」を生む…プロ化アマチュアか、参加できる人・国と参加できない人・国、種目と協議の選別、マイナーかメジャーか?実はヨーロッパ的であるかそうでないかが、競技種目になるかどうかの判断基準だ。乗馬やフェンシングは、ヨーロッパ貴族のものだからまずなくならない。メジャーであっても野球はだめ。ジェンダーや貧富の差もある。IOCが認める「政治」と、そうでない「政治」もある…南北合同チームは、IOCが認める「政治」なのである等々、様々な矛盾について説明された後、IOCの考えている世界と、我々の生きている世界は違う、そこを見誤るとだめ、相手には話が通じない、別の世界があるのだと述べられた。
今回の東京五輪のために建設された施設から、年間に膨大な赤字が垂れ流される…これは税金と命名権で補われるのだが、そもそもいくら投入されるのか分からないようになっている。オリパラの最終的な経常収支表なぞ、見たことが無い…様々な負担の項目があって、いつのまにか各自治体が負担することになる。大会組織委員会が公表している経費は、1兆6440億円であるが、そのほかの関連経費は不明で、トータルで3兆円を超えるとされている。
オリンピックをスポーツに収斂させてはならない、それは社会にとってもスポーツにとってもだめなことで、スポーツは社会の中で成り立っている。だが社会とクロスさせると、そこには資本主義がある。その資本主義が変質している。
オリンピックは近代資本主義といっしょに始まった、オリンピックと万博はよく並べられるが、オリンピックはパリの万博をモデルに組み立てられている。「見本市」として始まった万博は資本主義と親和性が高く、お金も凄くかかる。「祝賀資本主義」といって、ご祝儀を出せ、お祭りだから仕方がないか…となるのだが、ネオ・リベラル・グローバル資本主義が発展する中でオリンピックには「ぼったくり」や「はったり」が幅を利かしている。これは古式ゆかしい植民地主義的な略奪経済をネオリベ(例えば電通)が運用している。資本主義原則…市場に任せてみんなが得をするのではなく、それをネオリベ的運用で放棄して「うまいことやった人が特、やれなかった人は損!」というふうに資本主義が変質し、断末魔に陥っているのだ。だがオリンピックはそれに合わせて変化し、生き残っていくが、我々が今見ているオリンピックはなくなっていくだろうということを述べられた。

また小笠原さんは、パラリンピックを批判することは難しいがと前置きしながら、パラリンピック批判も始めた。そもそも日本はパラが弱いので「努力、勇気、感動、絆」とセットでパラリンピックが語られている。ところで障害者は、福祉を享受する権利者のことであった、「がんばっている人」ではない。パラスポーツを見て「お前もがんばれ!」というのでは生きづらいし、上から目線とどう違うのか?パラリンピアんも「ずる」をするし、楽なことも考える。ところでパラリンピックは、義足や車イスその他もろもろの「見本市」ともなっている。ごく一部のアスリートはそれを拒否して、義足とかをシェアしようという動きがある。またパラリンピアンの中には、オリンピック記録に手が届きそうな人もいて「オリンピックに出させろ!」と主張しているにもかかわらず、IOCはそれを認めない…多様性と言いながら、差別があると述べられた。
カンパアピールの後、質疑応答…まずオリンピックのためこれまで作った詩悦をどう使うのか、また海外ではどのように報道されていたのかということについて。施設は廃墟になるものが出てくると思いますとのこと。新国立競技場の、ボルネオからのラワン材使用については、隈研吾批判が建築雑誌で展開されたということも話題になった。
海外のメディアも、温度差はあるものの日本とあまり変わらない。始まる前は「(コロナ禍で)なんでやるんだ!」という論調であったが、終わったら「やってよかった」になっている。イギリスでは「元が取れた」という書き方、アメリカのメディアは、あまりオリンピックには関心がない(アメリカTV局の放映権の関係で夏の暑い季節にやっているにもかかわらず!)ドイツの新聞は常に「批判的」だったが、ドイツはベルリンで脛に傷がある。フランスは、次回パリ五輪があって、反五輪の行動も行われているからダイナミックな報道になっている。中国は分からないし、南アフリカを除いて、アフリカ諸国はほとんど伝えていないとのことである。
130年も続いている非営利・非政府の国際機関は、IOCとフリーメーソン(実際はもっと歴史がながい)ぐらいしかない。ブラジルのオリンピック関連施設は悲惨で、すでにペンペン草が生えているし、長野五輪の白馬のジャンプ台も修理しないで使えるまでつかう、平昌も同じようになるだろう。新たに施設を整備しないとイケナイ都市では、もう五輪はできないが、これまでやってきた欧米での都市における持ち回り開催は、IOCの理念に反する。
とにかくこれまでのようなオリンピックはなくなります。断末魔と言ったが、これはナメクジに塩をかけたら徐々に消えていくようなもので、オリンピックは手を変え品を変えて変わっていくが、我々が「これがオリンピックだ」と思っているものは消えるだろう…ということでしめられた。
主催者からの正式な発表はなかったが、参加者は50名弱ぐらいだったか…

司会はパク・ヘテさん。中学生の時、オリンピック会場予定地から人が追い出されるというニュースを聞いてオリンピックに疑問を抱いたとのこと。オリンピックは弱い者いじめであると批判された。
オリンピック反対行動の報告として、反五輪学生行動の南さんから報告。京都、亀岡での聖火リレー反対行動では、外国人の参加者に対していきなり職務質問がかけられ、怖いと同時に許せないと思った。こちらの声がスタジアムに届くぐらのデモで、人数が少なかったにもかかわらず好意的な報道がなされた。
7・23東京では、こちらの参加者だとおぼしき人物には、警察が職質をかけたり道をふさいだりとやりたい放題やってきた。学園祭などは中止されているのに、オリンピックだけ開催される差別性に怒りを覚えた。昼は聖火リレーへの抗議に300名、夜は700名ぐらいのデモと一連の行動に参加した。オリンピックおのものを止められなかったし、規制強化・監視カメラだけは残っている。2025年には大阪万博がある。メガイベントの双璧をなすオリンピックと万博、金もうけのために住民の生活が脅かされるのはごめんだと訴えられた。
続いて小笠原博毅さんの「パラレルワールドと資本主義の断末魔」と題した講演である。仮題「東京五輪に見た<安全安心>の監視社会と排除される人たち」からすいぶん離れているが、これは小笠原氏がオリンピック強行後に「反省(この「反省」には大きな意味があるらしい)」して考えたことを述べるということである。
まず今回の反五輪行動を「コロナ」がどうのこうのということに小さくまとめてはいかない。主催者とされる日本国・東京都も実はIOCの「ポチ」にすぎず、いち国際NGOでしかないIOCが、国家主権を凌駕して「あれをしろ、これをしろ」と指図しているのだという本質を述べられた。
IOCの広報部長、マーク・アダムスは「(都内の感染拡大は)パラレルワールド(別世界)みたいなもの、われわれから東京で感染を広げていることはない。われわれは最も検査されたコミュニティー。選手村は一番厳しいロックダウンの制限が取られている」(2021年7月9日)と述べたが、東京で感染は拡大していたし、選手村で選手や関係者も感染していた。「われわれ」のコミュニティーの中で「パラレルワールド」は崩壊していたのである。
だがそもそも、オリンピックはその始まりから「パラレルワールド」を前提にし、「パラレルワールド」を造ろうとしていたのではないか。「オリンピック憲章」オリンピズムの原則7に
「オリンピック・ムーブメントに属するためには、オリンピック憲章の遵守及びIOCの承認が必要である」と書かれている。どれだけスポーツのことが好きで、大切にしていたとしても、IOCが承認しないかぎりオリンピック運動としては認められないのである。
承認は「分断」を生む…プロ化アマチュアか、参加できる人・国と参加できない人・国、種目と協議の選別、マイナーかメジャーか?実はヨーロッパ的であるかそうでないかが、競技種目になるかどうかの判断基準だ。乗馬やフェンシングは、ヨーロッパ貴族のものだからまずなくならない。メジャーであっても野球はだめ。ジェンダーや貧富の差もある。IOCが認める「政治」と、そうでない「政治」もある…南北合同チームは、IOCが認める「政治」なのである等々、様々な矛盾について説明された後、IOCの考えている世界と、我々の生きている世界は違う、そこを見誤るとだめ、相手には話が通じない、別の世界があるのだと述べられた。
今回の東京五輪のために建設された施設から、年間に膨大な赤字が垂れ流される…これは税金と命名権で補われるのだが、そもそもいくら投入されるのか分からないようになっている。オリパラの最終的な経常収支表なぞ、見たことが無い…様々な負担の項目があって、いつのまにか各自治体が負担することになる。大会組織委員会が公表している経費は、1兆6440億円であるが、そのほかの関連経費は不明で、トータルで3兆円を超えるとされている。
オリンピックをスポーツに収斂させてはならない、それは社会にとってもスポーツにとってもだめなことで、スポーツは社会の中で成り立っている。だが社会とクロスさせると、そこには資本主義がある。その資本主義が変質している。
オリンピックは近代資本主義といっしょに始まった、オリンピックと万博はよく並べられるが、オリンピックはパリの万博をモデルに組み立てられている。「見本市」として始まった万博は資本主義と親和性が高く、お金も凄くかかる。「祝賀資本主義」といって、ご祝儀を出せ、お祭りだから仕方がないか…となるのだが、ネオ・リベラル・グローバル資本主義が発展する中でオリンピックには「ぼったくり」や「はったり」が幅を利かしている。これは古式ゆかしい植民地主義的な略奪経済をネオリベ(例えば電通)が運用している。資本主義原則…市場に任せてみんなが得をするのではなく、それをネオリベ的運用で放棄して「うまいことやった人が特、やれなかった人は損!」というふうに資本主義が変質し、断末魔に陥っているのだ。だがオリンピックはそれに合わせて変化し、生き残っていくが、我々が今見ているオリンピックはなくなっていくだろうということを述べられた。

また小笠原さんは、パラリンピックを批判することは難しいがと前置きしながら、パラリンピック批判も始めた。そもそも日本はパラが弱いので「努力、勇気、感動、絆」とセットでパラリンピックが語られている。ところで障害者は、福祉を享受する権利者のことであった、「がんばっている人」ではない。パラスポーツを見て「お前もがんばれ!」というのでは生きづらいし、上から目線とどう違うのか?パラリンピアんも「ずる」をするし、楽なことも考える。ところでパラリンピックは、義足や車イスその他もろもろの「見本市」ともなっている。ごく一部のアスリートはそれを拒否して、義足とかをシェアしようという動きがある。またパラリンピアンの中には、オリンピック記録に手が届きそうな人もいて「オリンピックに出させろ!」と主張しているにもかかわらず、IOCはそれを認めない…多様性と言いながら、差別があると述べられた。
カンパアピールの後、質疑応答…まずオリンピックのためこれまで作った詩悦をどう使うのか、また海外ではどのように報道されていたのかということについて。施設は廃墟になるものが出てくると思いますとのこと。新国立競技場の、ボルネオからのラワン材使用については、隈研吾批判が建築雑誌で展開されたということも話題になった。
海外のメディアも、温度差はあるものの日本とあまり変わらない。始まる前は「(コロナ禍で)なんでやるんだ!」という論調であったが、終わったら「やってよかった」になっている。イギリスでは「元が取れた」という書き方、アメリカのメディアは、あまりオリンピックには関心がない(アメリカTV局の放映権の関係で夏の暑い季節にやっているにもかかわらず!)ドイツの新聞は常に「批判的」だったが、ドイツはベルリンで脛に傷がある。フランスは、次回パリ五輪があって、反五輪の行動も行われているからダイナミックな報道になっている。中国は分からないし、南アフリカを除いて、アフリカ諸国はほとんど伝えていないとのことである。
130年も続いている非営利・非政府の国際機関は、IOCとフリーメーソン(実際はもっと歴史がながい)ぐらいしかない。ブラジルのオリンピック関連施設は悲惨で、すでにペンペン草が生えているし、長野五輪の白馬のジャンプ台も修理しないで使えるまでつかう、平昌も同じようになるだろう。新たに施設を整備しないとイケナイ都市では、もう五輪はできないが、これまでやってきた欧米での都市における持ち回り開催は、IOCの理念に反する。
とにかくこれまでのようなオリンピックはなくなります。断末魔と言ったが、これはナメクジに塩をかけたら徐々に消えていくようなもので、オリンピックは手を変え品を変えて変わっていくが、我々が「これがオリンピックだ」と思っているものは消えるだろう…ということでしめられた。
主催者からの正式な発表はなかったが、参加者は50名弱ぐらいだったか…