たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

#斎藤幸平

ゼロからの「資本論」を読む(その6)

 ながいことほっておいた(その5)の続き…
 では、どうすればいいのか?

 答えは…「ない⁉」ひぇぇ~
 そう、このへんが斎藤氏の著作の弱点かもしれない…(その5)でも書いたが「国家権力奪取」の革命を否定し、「アソシエーション」の拡大・浸食によって、資本主義社会を掘り崩していこう!というのが方法らしいと書いたが…斎藤氏は重大な本から一文だけ引用している…共産主義社会とは
 その際、どのように富をコモンとしてシェアするかというと、
 各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!(全集第19巻21頁) 
 これは、マルクスが晩年の1875年に著した『ゴータ綱領批判』のなかの一節です。(p200)

 そう、答えは「ゴータ綱領批判」にあるのだ!
 じつは、ゴータ綱領批判、大昔に中核派が理論学習のために出した「マルクス主義基本文献学習シリーズ」の一番最初に取り上げられたものなのだ…私もこれを読んでびっくりしたものだ…
ゴータ綱領批判_0001
 1994年6月15日第一版第一刷である。
 いやぁ~せっかく「ゴータ綱領批判」から引用しているのだから、これをもっと深めてほしかったものだ。上記本からの引用(すなわち「ゴータ綱領批判」の前進社版新訳である)となるが、
 しかし、このような不都合は、長い生みの苦しみののちの資本主義社会から生れ出たばかりの共産主義段階の第一段階では避けられない。(中略)共産主義社会のより高度な段階で、すなわち(中楽)そのときはじめて、狭いブルジョワ的な権利という地平は完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう書くことができる。すなわち、各人はその能力に応じて〔働き〕、その必要に応じて〔受け取る〕!
 と。(p184~185)

 そう、共産主義社会には、生まれたばかりの第一段階と、より高度な段階があって、「コモン」を本質的に共同で管理できるのは「高度な段階」である…とされている。では第一段階とは何か?ゴータ綱領批判ではさらに先に、こんな記述がある。
 資本主義社会と共産主義社会の間には、前者から後者への革命的転嫁の時期がある。この時期にはまた、政治的な過渡期が対応しており、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。(p198)
 この文章はラサールの綱領における「国家」観、すなわちラサールは既存の国家をそのまま使って「社会主義的」な政策を展開しようと「ゴータ綱領」を書いたわけだが、その国家観をマルクスが批判しているものである。しかしその中にはきちんと「革命的転嫁」という言葉と、「プロレタリア―トの革命的独裁」という言葉が書かれている。すなわちマルクスは1875年になっても「国家権力」をどないかする革命について熱く語っているのである。
 どうも斎藤氏の研究では、マルクスの「国家観」「革命観」がどうなっているのか(変わったのか変わっていないのか、どう深化したのか)というところが欠けているようだ…晩期マルクスの「ノート」等には、そういった記述があまりなかったのだろうか?
 
 「革命的転嫁」は必要だ…仮に「アソシエーション」で社会を浸食していったとしても、いずれ多くのところで資本主義的生産様式とぶつかる。資本が自らの地位を脅かすような「アソシエーション」といった輩に対し、原材料や生産手段を売ってくれない、生産物を買ってくれないなんてことは山ほど起こるだろう。それはアソシエーションにとって死活問題である…だったら、暴力的手段で資本から原材料や生産手段を奪い取り、流通をおさえなかればならない…資本主義社会で資本を守っているのは「国家」であるから、それも打倒・解体し、「アソシエーション」の力によって別のものに置き換えなければならない。

 革命は必要なのだ…

 だが、そこに至るまで「アソシエーション」による資本主義社会への浸食を図るつづける、そしてアソシエーションの構成員(これが古い意味での労働者階級ではない、あいたらしいプロレタリアートの概念となる)が革命の原動力とならなければならないのである…ひぇ~大変だ!

 そしてアソシエーションは「プロレタリアート独裁」…すなわち、パリ・コミューンの原則で運営されなければならないし、内部における分配も含め、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るような運営をしなければならない(そうでないと、腐敗・堕落して資本主義的な、あるいは権威主義、スターリン主義的なものになってしまう)

 とまぁ、斎藤氏がマルクスの「国家論」ぬきで「資本論」とマルクスを語るのであれば、それを補いながらやっていかなければならない!ということである。

ゼロからの「資本論」を読む(その5)

 そろそろこのコーナーも勝手に「まとめ」に入るよ…
ゼロからの資本論_0001
 斎藤幸平氏は本書で、晩期マルクスが独自に「自然科学」や「共同体」の研究をしており、従来の「マルクス主義」でとらえられているものとは違う境地・思想にマルクスは立っていたとする。特に「共同体研究」について、ロシアの農耕共同体「ミール」の研究にいそしみ「ザスーリチ宛の手紙」草稿も引用して
 マルクスが単に資本主義のもとでの近代化を無制限に進めていけばいいと考えていたのではないことは、引用からも明らかでしょう。無限の資本の価値増殖と競争のための技術革新は、「修復不可能な亀裂」を生んでしまう。
 ここで、共同体社会が、伝統に依拠した定常型の持続可能な社会であったことを思い出してください。ということは、西ヨーロッパの社会もそのような社会に移行する必要があると、晩年のマルクスは考えていたのです。(中略)
 繰り返せば、そのような「高次の」共同体社会を実現するために、無限の経済成長は必要ありません。生産力を無限に上げていく必要もないのです。だから私はこれを「脱成長」型経済と呼んでいます。(p196~7)

 と展開してきたのが、前著の「人新世の「資本論」」でも展開された彼の結論なのであるが…
 人新世の「資本論」 (集英社新書) [ 斎藤 幸平 ]
人新世の「資本論」 (集英社新書) [ 斎藤 幸平 ]
 ではどうやったら「脱成長コミュニズム」、あるいは「高次の共同体社会」に到達できるのか、その具体的な方法については斎藤幸平氏ははっきり書いていない。
 本書では「パリ・コミューン」の経験も踏まえ、マルクスの革命観が1848年の「共産党宣言」当時とは変わっていると述べている。「共産党宣言」にはパリ・コミューンについて書いた「フランスの内覧」から引用しながら、1872年の「ドイツ語版の序文」を引用したうえで、次のように展開している。
 ここでは、1848年に執筆された時からの認識の変化が強調されているのがわかるでしょう。『共産党宣言』の段階では、革命によって国家権力を奪取して、その力を社会主義設立のために使えると素朴に考えていた節がありました。けれども、パリ・コミューンの経験を踏まえて、真に平等で、民主的な社会を作るためには、国家権力を使う以外の道を試す必要があると、強調されるようになっているのです。(p205)
 「国家権力奪取の革命」を否定する!ということだ…では「国家権力の打倒」「解体」のための革命ならいいのだろうか?そこのところははっきりしない。
 ただ斎藤氏は「法学幻想」批判を展開しているように、資本主義そのものを国家の力で規制をかけたり、抑制したりする…あるいはソ連・中国がやってきたように生産手段を「国有化」するといった方法を批判し、「できあいの国家」をそのまま利用して、資本主義社会の根源的な変革、そして「脱西洋コミュニズム」に行きつくことはないのであるが…
 ではそうするのか?本書を読む限りでは、「協同組合的生産」がコミュニズムの基礎となるので、人々が生きていくのに必要な必需品、サービスをつくる「労働者協同組合」をつくり、生産に必要な知識や生産手段、生産物を「コモン」として管理していく…それらの協同組合がソーシャルビジネスや自治体ともつながっていくことで、マクロな範囲でアソシエーションを構築していく…世界的に注目を集めている「ミュニシパリズム(地域自治主義)」の国際的ネットワークなどの動き、ローカルなもコミュニティや地方自治体が、グローバルにつながり始めている…こういった「アソシエーション」の拡大・浸食によって、資本主義社会を掘り崩していこう!というのが方法らしい。

 もっともそれでは、これまで「レーニン主義的」に建設されてきた「革命党派」「共産主義党派」にとっては、あまり面白くない結論だろう。では、どうすればいいのか?(つづくよ)

ゼロからの「資本論」を読む(その4)

 しばらくあけたが、(その2)(その3)で「法学幻想」批判とアソシエーションに支えられた「福祉国家」論について紹介した。なぜ「アソシエーション」を重要視するか?というと
 マルクスによれば、法や制度よりも根幹にあるのが、商品や貨幣が人間を支配するような力をふるっているという現実そのものです。人間とモノの関係性の転換をマルクスは「物象化」と呼び、批判したのを思い出してください(本書第一章参照)
 ここでまず確認しておきたいのは、マルクスにとって資本主義に抵抗するうえで重要なのは国家権力の奪取や政治体制の変革ではなく、経済の領域でこの物象化の力を抑えていくことなのです。そう言うと難しく感じるかもしれませんが、要するに、商品や貨幣に依存せずとも生きていけるように、日々の選択の余地を広げていくということです。(p168~169)

 引用の後半は、のちに問題として別途とりあげるが「物象化」を打ち砕こう!ということに他ならない。そして
 けれども、ソ連ではまず先行したのは国有化の力です。それとは反対に、福祉国家の場合、先にあるのは、物象化の力を抑えるための社会運動です。これをマルクスは「アソシエーション(自発的な結社)」と呼びます。(p171)
 と続いている。
 では「物象化」について第一章に戻ってみてみよう…
第一章「商品」に振り回される私たち では、商品とは、価値とは何か?という、資本論の一番最初の部分が展開されているのだが…ま、要するに
・商品であれ何であれ、労働によってモノを作る(生産する)
・つくられたモノ、商品は「使用価値」と「価値」を持つ
・資本主義社会は、「使用価値」をつくるためにモノをつくる(労働する)のではなく、「価値」をつくって売る(おカネを得る)ために商品をつくる(労働する)
 そして斎藤氏は次のように説明する。
 資本主義のもとでは、いくらで売れそうか、どれくらい儲かりそうかが大事です。つまり、価格という形で現れる「価値」の側面ばかりが優先され、肝心の「使用価値」は二の次になる。例えば、地球やお財布のことを考えれば、環境に配慮した素材を使って、長く使える商品を作るべきです。ところが、実際には、ファストファッションのように、環境負荷を無視して、安さを追求した洋服で、私たちのクローゼットはあふれかえっています。「儲かるモノ」(価値の側面)と「必要なモノ」(使用価値の側面)がここでは乖離しているのです。(p41)
 この乖離、そして「価値」に振り回される消費者、資本家も含めてこう展開する。
 「使用価値」のために物を作っていた時代は、文字通り、人間が「物を使っていた」わけですが、「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象をマルクスは「物象化」と呼びます。人間が労働して作った物が「商品」となるや否や、不思議な力で、人間の暮らしや行動を支配するようになるというわけです。(p42)
 こう「物象化」について説明をした。
 だから「商品」生産でない労働、必要な物やサービスを「商品」として「消費」せず、別の原理で手に入れることを、「アソシエーション」の力で行うことを訴えるということなのだ。

ゼロからの「資本論」を読む(その3)

 斎藤幸平のゼロからの「資本論」(NHK出版新書2023年1月)を読んであちこち飛びながらのんびり解説するコーナー(その2
 資本主義社会をそのままにして、BIや税制改革による格差是正、MMTによる財政出動「雇用保障プログラム」を「法学幻想」としてぶった切った斎藤幸平氏であるが、欧州の資本主義社会はそのままの「福祉国家」については一定の評価を与えている。なお、彼が留学していたドイツは、大学の学費は無料!1学期2万円ほどで電車バス乗り放題の定期券がついた学生証がもらええる。それがあれば学食も集約円と安く…云々と続き、医療も原則無料、介護サービスも手厚く、失業者手当、職業訓練も充実している…のだそうで、これを
 これこそが、福祉国家の研究者であるイエスタ・エスピン=アンデルセンが「脱商品化」と呼んだ事態です。つまり、生活に必要な財(住居・公園)やサービス(教育、医療、公共交通機関)が無償でアクセスできるようになればなるほど、脱商品化は進んでいきます。これらの財やサービスは、必要とする人に対して、市場で貨幣を使うことなく、直接に医療や教育といった形で現物給付されるわけです。
 現物給付の結果、私たちは、貨幣を手に入れるために働く必要が弱まります。福祉国家は、もちろん資本主義国家です。けれども、脱商品化によって、物象化の力にブレーキをかけているのがわかるでしょう。(p170)

 と称賛しているのだ。
 手厚い福祉…とは、あまり対価を払わないで財やサービスを受け取れるので、ほとんど現物支給に近い…そうすると「生きるために」あるいは「老後に備えて」必死に働く必要はなくなるだろう。提供される財やサービスが、市場を通さないで、利用者からカネをもらわないで、提供されるならば、財やサービスを提供するための資金、労働者の賃金などはどうするのか?という疑問はのこる。
 斎藤氏によれば、これは物象化の力をおさえる社会運動の力、これをマルクスは「アソシエーション(自発的な結社)」と呼ぶが、それが先にあって、そこから提供されているのだそうな。
 実はマルクス自身は「社会主義」や「コミュニズム」といった表現はほとんど使っていません。浸るべき社会のあり方を語るときに彼が繰り返し使っていたのは「アソシエーション」という言葉なのです。(p171)
 労働組合、協同組合、労働者政党、NGO,NPO、み~んな「アソシエーション」なんだそうな。
 マルクスが目指していたのは、ソ連のような官僚支配の社会ではなく、人々の自発的な連帯を基礎とした民主的社会なのです。(p171)
 ふえぇ~ん、そうなのだ‼
 失業保険をはじめとする社会保険や年金、公共図書館から公共医療まで、その発端は労働組合、協同組合、互助組織の実践による、自発的な相互扶助システムなのだそうな。
 現代社会ではこういった社会福祉制度も、国家の行政機構にしっかり組み込まれているから、ついつい税金の分配や「財源論」でものごとを考えてしまう。日本の「公共交通」なんかも「受益者負担原則」でサービスに対してそこそこのカネ払って利用せざるを得ないから、そうすると税制改革やMTTででてきたカネを国家がつぎ込むとかの「法学幻想」に陥ってしまうのだろう。
 
 ただ斎藤氏も当然、福祉国家を手放しで礼賛しているわけではない。本書では福祉国家の限界を4点
1.官僚制の肥大化の問題…アソシエーションに端を発したとはいえ、国家や行政権力の力、官僚制が大きくなること、また労働者民衆の自発的な参加から、大きな組合・組織にまかせっきりの受動的な状態に変わっていく、そのことで労働者もまた資本主義的な価値観を内面化するようになること。
2.南北問題…福祉国家の「再分配政策」が高度経済成長を前提とするものであるから、経済成長のためより弱い立場の者から搾取・収奪することになること。福祉国家があくまでも先進諸国の一国内で「脱商品化」を進めても、外部としての途上国や旧植民地国からの膨大な搾取に依拠してしまうこと。
3.自然環境の収奪…より弱い立場のののからの搾取を批判しないで、資本主義の恩恵を享受して満足する、「帝国的生活様式」を維持するための収奪と外部化は、大量生産、大量消費のライフスタイルが普及することで、自然環境がその犠牲になること。
4.福祉国家の家父長的性格、ジェンダー不平等を再生産してしまった問題…マジョリティ男性が労働者として毎日働けるための、ケアの労働は女性のものとされ、料理・洗濯・子育ては再生産に必要なものであるにもかかわらず、賃金もいっさい払われないまま放置されてきたこと。
 斎藤氏は、こうした福祉国家の限界にしっかり向き合わなければならないし、福祉国家を可能にしていた高度経済成長はもはや達成可能ではないし、気候変動のような地球の限界を前にしてさらなる外部化、収奪もできない、先進国中心で官僚的、男性中心主義的な運動は、社会を変えるために必要な広がりを欠くだろうとして。こうまとめている。
 つまり、階級だけでなく、ジェンダーや環境、人種の問題に取り組む、新しいアソシエーションと脱商品化の道を改めて考えなければなりません。そしてそれが<コモン>の再生であり、最晩年のマルクスが考えていた「脱成長コミュニズム」なのです。(p184)

「ゼロからの資本論」を読む(その2)

 斎藤幸平のゼロからの「資本論」(NHK出版新書2023年1月)を読んであちこち飛びながらのんびり解説するコーナー(その1)
 今回は「法学幻想」批判について…
 斎藤氏は5章 グッバイ・レーニン!においてまず
 その際にまず確認しておかなければならないのが、富の豊かさを取り戻すために、マルクスは一貫して、資本主義を超えた社会を構想していたという点です。つまり、資本主義の内部で、単に税金を上げて再分配をしたり、労働者の給料を上げたりするだけではだめだというのです。(p152)
 と切り出し、資本主義を超えた社会を展望しなかればならないと説いている。そして「グッバイ・レーニン!」の章題のとおり、ソ連、中国などの既存の「社会主義」を批判している…こんなものは、マルクスが構想していた「コミュニズム」ではない。民主主義も欠如している。むしろ「政治的資本主義(ブランコ・ミラノヴィッチ)」「国家資本主義」にすぎない。単に生産手段を私有から国有に変えるだけでは、社会主義ではないということだ。
 それではなぜ国有化と社会主義を結び付ける議論が強いのか?それは「政治の力」で達成できるからであり、経済の問題を国家や政治権力の力で解決しようとするのが「国家資本主義」の特徴だからである。そしてこう続ける
 マルクスはその危険性に気がついていました。彼は、表層的な資本主義理解に陥ると、革命や選挙などによって政権を奪取し法律を変えればいいという「法学幻想」が生まれてしまう。と警告しています。ところが現存した「社会主義」は、まさにそのような幻想に陥てしまったのです。(p168)
 と「法学幻想」についての批判に移る…資本(主義社会)と対抗できるアソシエーション…労働組合、協同組合、労働者政党からNPO,NGOまで…の力が弱まると
 マルクスによる「国家資本主義」や「法学幻想」の批判は今日その重要さを増しています。このような幻想は過去に限定される話ではないからです。労働運動が停滞し、アソシエーションが弱まるなかで、国家の強い力を利用した資本主義の改革案が、再び打ち出されるようになっているのです。(p173)
 と続くのだ。
 その「国家の強い力を利用した資本主義の改革案」として、ベーシックインカム(BI)、トマ・ピケティの税制改革案(所得税や法人税、相続税を上げることで大胆な再分配を実現する)、MMTにが掲げる大胆な財政出動「雇用保障プログラム」がやり玉に挙げられている。まぁ、このへんは「真実」だ!
 こういった改革は国家が資本に「大規制」をかけて増税とかを行うことになるが、資本は移動できない国家や労働者を超えて、好きなところで済なものに投資できる。この自由さが資本の権力や優位性の源となっているので、この自由を盾に「資本のストライキ」を起こすことになると斎藤氏は警告する(どういったストライキになるのかは不明)その「資本のストライキ」に打ち勝つためには、アソシエーションを軸とした相当な力の社会運動が必要になる。しかしそういったアソシエーションを作ろうという視点が、BIにも、ピケティにも、MMTにも乏しいと指摘している。
 そして、そのことは偶然ではありません。階級闘争なき時代にトップダウンで行えるような政治的改革が、BIであり、税制改革であり、MMTであるからです。これらは政策や法の議論が先行する「法学幻想」に囚われているのです。
 それに対して、物象化・アソシエーション・階級闘争というマルクス独自の視点をここに導入することは、思考や実践の幅を大きく広げてくれるし、これらの大胆な政策提案を実現するためにも、欠かせない前提条件なのです。(p178)

 と続けているのである。

 こういったことも念頭において、次はアソシエーションに支えられた福祉国家について語ろうと思うぞ。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Twitter プロフィール
あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…「鉄道むすめ」から「侵略!イカ娘」、「ガルパン」そして「血小板ちゃん」という謎の進化を遂げる。白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主だが、鉄道・乗り鉄ネタ、完乗闘争の記録も。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

最新コメント
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ