その6の続き、これで最後です。
第七章 ナショナリズムとレイシズムを切り離す
第七章 ナショナリズムとレイシズムを切り離す
「レイシズムはナショナリズムと常に互いに補い合う関係にある」p257 なぜなら、レイシズムが実際に暴力を組織する時、国家権力を動員しナショナリズムの支えを得ているし、何らかの「エスニックな基盤」がないと国民/非国民を分断できないからである。これを補うのがレイシズムだ。国民/非国民 に(自)人種/(他)人種 が結びついているのである。
レイシズムによるナショナリズムの補完については、
第一 レイシズムは過激なナショナリズムの産物などではなく、「正常な」ナショナリズムに内在的なものであり、
第二 国民国家の外的境界において機能するレイシズムが最も根本的なもの(ナショナリズムが存在する限り、レイシズムが存在し続ける)である。ただし、
第三 ナショナリズムとレイシズムには「それらの表象と実在に関してつねにズレが存在する」なぜなら反レイシズム次第で、その国のナショナリズムの政治的目標と具体的なレイシズム実践との間に、矛盾を生じさせ、激化させることも可能だからだ。反レイシズムによってシティズンシップを脱国民化されたものに変えてゆくことで、ナショナリズムとレイシズムの矛盾をふかめる実践的方向性が提示されるのである。
「日本人」と言った時、①日本国籍者だけを意味しない、②「日系」(人種)であることが無意識に前提とされている。ところが、① 国民と国民を分ける線(ナショナリズム)②人種と人種を分ける線(レイシズム)は、下図のように異なるのである。


Ⓐ日本国籍かつ人種的マジョリティ Ⓑ日本国籍かつ人種的マイノリティ
Ⓒ非日本国籍かつ人種的マジョリティ Ⓓ非日本国籍かつ人種的マイノリティ
ⒷとⒸは普段見えない、「存在しない」、都合が良い時にⒶに同化し、都合悪くなるとⒹに「異化」する。これは、「日本国籍だったらもう日本人じゃん」という意識と、日本国籍を持とうが「外国人」として「攻撃」することが表裏一体だということだ。日本社会では、日系であっても犯罪被害者や、「慰安婦問題」解決に尽力するマイク・ホンダは「売国奴」であり、一方でノーベル賞受賞の仲村修二やカズオ・イシグロは、日本国籍がないにもかかわらず「日本人」とされる。
世界は公民権運動、反レイシズム規範の発展により①国民(ネイション)と②人種(レイス)を切り離し、①国籍の壁と②レイシズムの壁を引っ剥がすことに成功した。それによってⒷとⒸは社会的に「見える」ようになり、他民族・多文化主義が成立するようになるのである。
セクシズムと一体のレイシズム―インターセクショナリティという難問
インターセクショナリティ(交叉性)とは、現実の歴史の中では従属が、レイシズムやセクシズムなど、常に複数の従属と交差していることを明確にする概念である。
黒人女性弁護士、キンバリー・クレンショウは、黒人女性など非白人女性がレイシズムとセクシズムの二重の従属に、特に暴力に苦しめられているにもかかわらず、既存の反レイシズム運動からもフェミニズム運動からも不可視化されている問題を告発した。これは民族差別と性差別によって被害が倍加するということだけを意味するのではなく、①支配の構造的次元②固有の支配システム③被支配者の表象 によって成り立つ問題なのである。
レイシズムとセクシズムの絡み合いは、黒人男性が白人女性をレイプする犯罪者と言うステレオタイプによって示されている。これは人種混交へ恐怖を掻き立てるレイシズムと、女性の貞操を男性の所有物とするセクシズムによる扇動であり、奴隷である黒人女性を従属させるための白人男性によるレイプの頻発という実践だったのだ。
また在日朝鮮人へのレイシズム暴力では、朝高生襲撃事件では狙われるのは男性であり、チマチョゴリ事件では女性であった。前者は極右によるマチズモとミソジニー「女を殴る男は恥だ」、後者は庶民がレイシズム暴力を振るう場合、より弱くしかも識別可能な制服を着用した女性が狙われるということである。また日本の戸籍制度は、レイシズムとセクシズムの体現を日本型家族によって媒介している。五二年の国籍はく奪も、戸籍=日本型家族を基準にして行われたことを想起しよう。
レイシズムは近代に登場した時からセクシズムと一体なのだ。
資本主義とレイシズム
資本主義は①レイシズムを途方もなく強化させる②反レイシズムを骨抜きにする③差別によって社会的連帯を壊す。(第二章でも見たが、資本主義が発展すればレイシズムも激しくなっている)こうした資本主義を、BLM運動は告発した。監獄ビジネスと呼ばれる産獄複合体が結びついた必然的なレイシズム暴力、レイシズムを生み出す資本主義のシステムを批判したのである。
人間を不平等に扱う差別と、剰余価値の生産を目的とする資本主義的生産様式とが、きわめて相性が良いのだ。再生産の目的が剰余価値ならば、資本は際限のない長時間労働を強いる。奴隷制の残虐さ(身分制や奴隷制)が資本の残額さ(どんな過酷な搾取も辞さない)と結びつくことで、後者が搾取のため前者を再編し強化するのである。
反差別が依拠する平等さえ、市場原理の平等に乗っ取られ、気づかないうちに抵抗できなくなってしまう。不平等な搾取が、”契約”を伴うことで自由で平等なものとして現れる、市場で行われる商品交換は自由で平等なものとして現れる。「隠された(賃金)奴隷制」を支えるのだ。
新自由主義による平等の簒奪は、結果の平等が、機会の平等に置き換えられるということだ。ミルトン・フリードマンは市場原理の平等を論拠に差別禁止法さえ否定していたし、ゲーリー・ベッカーはアファーマティブアクションを否定して、差別を市場によって定義した。「偏見を満足させるために利益や賃金や所得を自発的に放棄することによって成立する」「もし企業があるグループの人たちを雇わないという選択をしても、よりコストの少ない、より生産性の高い他の人たちを雇うことが収益増加をもたらすものであるなら、その企業の決定は瀬別的ではない。」p291
統計上マイノリティが所得や学歴で差別があったとしても、それはレイシズムのせいではなく、平等な市場で競走した結果だと正当化される。市場原理や統計を用いる新自由主義的レイシズムは、生物学的なレイシズムとも実は親和的なものだ。
これに対抗するためには、新自由主義的レイシズムとシティズンシップ闘争の関係が重要である。シティズンシップ内部の市民的自由VS社会的自由の対立を社会権の側が市場規制によって抑え込むような階級闘争もまた重要であり、それなしには反レイシズムは容易に新自由主義に簒奪されてしまうであろう。重要なことは、資本主義を抑制する市場規制や福祉の拡充である。
反レイシズム闘争を越えて-ブラック・イズ・マター運動が問うもの
BLM運動は資本主義との対決を回避した旧世代の反レイシズム運動への批判でもある。反差別ブレーキをつくる反レイシズムの限界性は、資本主義というシステムを変えない限り、レイシズムはナショナリズムと結びついて国民国家を支えるし、労働力再生産装置としての家族ナショナリズムに結びついたセクシズムと根がらみになり、労働者階級を分断し支配するのである。
インターセクショナリティへの取り組みや、資本主義との闘いを避けることなく取り組むこと、BLMでは従来の反レイシズムと異なり①資本主義批判②気候正義要求③インターセクショナリティ④植民地主義批判⑤監獄・警察廃止 などの革新的要求を伴っている。パレスチナや南アをはじめ第三世界との連帯を通じてレイシズムとグローバルに闘ってゆく運動なのである。
「私たちは同時代人として、この運動に触発されつつ、どのように日本であるいはアジアで反レイシズムを闘い取って連帯していくかが問われている。」P302
あとがき
「日本型反差別は己の正当性を確保するために、マイノリティを「差別の真理」を生む「生産手段」にしてしまう。これこそ当事者に本心から被害を語るよう駆り立てて心身御すり減らすが、反レイシズム規範形成には一向に結びつかないという、権力がしくんだ恐るべきワナなのである。
私たちは日本型反差別から完全に脱却し、本書で述べた反レイシズム1.0を勝ち取る実践の中で、私たちはBLMのような資本主義と闘うグローバルな反レイシズム運動と連帯する道を切り拓かねばならない。それができてはじめて私たちはマイノリティの阻害を語り、それを普遍的な社会変革につなげるための言葉を初面してゆくことができるだろう。」P305 とまとめられている。
本書を学び、反レイシズム1.0をまず勝ち取っていこう!外国人差別、民族アイデンティティに基づく差別を許さない日本社会をつくろう!
![レイシズムとは何か (ちくま新書 1528) [ 梁 英聖 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/3532/9784480073532.jpg?_ex=128x128)
レイシズムとは何か (ちくま新書 1528) [ 梁 英聖 ]
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