トランスジェンダー入門(前篇) (中篇) の続き…5章 法律の最後のほうから…
![トランスジェンダー入門 (集英社新書) [ 周司 あきら ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/2747/9784087212747_1_5.jpg?_ex=128x128)
トランスジェンダー入門 (集英社新書) [ 周司 あきら ]
法律では、同性婚の問題についても触れられている。同性婚は「LGB」の問題であってTは関係ないのでは?と思われるかもしれないが、先にも述べた通り日本の「特例法」には未婚要件があって、これは「同性婚」になることを防ぐためのものだから、同性婚が認められれば特例法に未婚要件を入れる必要もなくなる。またトランスジェンダーの人は異性愛者でない人も多いそうで(そういった調査結果もある)LGBとTは違うというのは、概念的には正しくても実態がそんなに簡単なものではないということでもある。そして「そもそも婚姻制度が偏った利益・不利益をもたらす以上、婚姻践祚自体がなくなって然るべきかもしれません。しかしそうした婚姻制度の廃絶のためにも、まずは婚姻平等の推進というかたちで、圧倒的な不均衡が(単婚)異性愛とそれ以外のあいだに存在するという現実を問題化していくことは有益に違いありません(p178)」とまとめている。
日本には。性的マイノリティに対する差別を禁止する法律はないし、包括的な差別禁止法も存在しない。5章では最後にそういった状況や、「LGBT差別解消法」「LGBT理解増進法」制定についても触れた上で、差別禁止法の制定は急務であると述べている。一方5章までの厳しい現実がある中で、トランスジェンダーがただの「可哀そうなマイノリティ」ではなく、自ら行動し、世界を変えるための運動を積み重ねてきたとして、続く6章 フェミニズムと男性学 で社会変革のビジョンを示している。
トランスジェンダーの方が何を求めているか、具体的なものを挙げて見ると(p183~184)
・身体の自律性を持つこと。身体の統合性を侵害されないこと。
・性と生殖について自己決定権を持つこと。
・路上で暴力をふるわれないこと。
・・・
・女らしさ、男らしさを押し付けられないこと。
・・・
・プライベートを詮索されず、個人情報を守られること。勝手にそれらを暴かれないこと。
・安全な環境で働けること。職場で差別されないこと。
・・・
・平等に教育の機会を得ること
・過剰な男女二元論をやめること。どこでも性差が意味を持ちすぎる現状や、その背景にある家父長制がなくなること。
これらの要求は、フェミニズムが求め、獲得してきた権利や正義と幅広く重なっている。また社会の意思決定を下す地位に、少数者であるトラスジェンダーがいないという「過少代表」という状況をあらためなければならない。それはシス男性が意思決定の権力を独占してきたことに対する、フェミニズムが歴史的に問題視し、要求化してきたことともつながる。しかし、単なる目標の一致、敵が同じという問題に留まらないのである。それはフェミニズムが「女性たちの間にある差異」について常に目を配り、留意してきたことから「トランス女性をフェミニズムが置き去りにしてはならないことは明白です(中略)こうした差異が存在するという事実、「女性」が決して一枚板ではないという事実を無視してはいけません。つまりフェミニズムがフェミニズムであるためには、必然的にトランス女性が抱えている課題を共に女性の問題として考え続ける必要があり、また逆にトランス女性たちによる女性解放の訴えは、フェミニズムを間違いなく豊かにするのです(p188)」ということなのだ。
さらにトランスジェンダーが望んでいるのは、「女性/男性はこうするもの」という性別規範・ルールが少しでも緩やかになる社会であり、それはフェミニズムにとっても重要な課題である。しかも「一部のトランスたちは、自身の体験を通して、シスの人が知らない「ジェンダー」の秘密をしっていることがあるからです。
その代表例は、「女らしさ」や「男らしさ」の基準と適用が、実はとても曖昧で、ときに馬鹿らしいものですらあるという事実です(p191)」トランスジェンダーであると「アウティング」された後で、姿や言動が変わっていないにもかかわらず「トランス女性っぽさ」や「男らしさ」が「発見」されてしまうようなことや、「女らしさ」を要求される場合でも、「トランス女性」だけに強いられる「女らしさ」があること(短髪にしても、シス女性なら「かっこいい」と許容されることが、トランス女性だとミスジェンダリングされ、差別を受ける確率が高くなるなど)そいうった「違い」に目を凝らす必要がある…「フェミニズムはときには失敗を繰り返しながら、「らしさ」の規範の多様性に目を凝らし、多様な女性たちと共に歩もうと努力を積み重ねてきました(p194)」
また「リプロダクティブ・ライツ(生殖の権利)」という…中絶や避妊のような「子どもをもたないことを選ぶ権利」だけではなく、意に反して不妊化を強いられない権利、子どもを持つ権利、安全に子育てする権利が含まれているのだが、こうした権利はフェミニズムが求めてきたものである。ところが日本の「特例法」では不妊化が強制され、リプロダクティブ・ライツを侵害している。「意に反する不妊化を強いられてよい人などいません。フェミニズムの歴史は、私たちにそう教えています。性別承認のために子宮や卵巣、精巣の摘出を強いられているトランスの状況を変え、トランスの生殖の権利を守るために立ち上がることは、まさにフェミニズム自身の課題でもあるのです(p196)」ということで、フェミニズムがトランスの課題を考えざるを得ないのだ。
フェミニズムがある一方で「男性学」というものもある。これは「人間」として自明のものとしてとらえられていた「男性」をジェンダーの視点からとらえ直し、「男性性」や「男らしさ」が社会的にどう構築されてきたか多角的にとらえる学問なのだが、男性の特権性のみならず、男性が抑圧された軽経験や、男性内の差異や多様性を考えるものでもある。ここに「トランスジェンダーの視点を取り入れるとどうなるか、「トランスジェンダーの経験を参照すれば分かるように、男らしさから距離を取ったりそこから排除されてきたりした男性もいます。(中略)それだけでなくトランスジェンダーの存在は、いかにして「男性」や「男らしさ」が社会的に作られてきたのか、暴く際のヒントにもなります(p198~199)」ということだ。
男性内においても不平等があり、またトランス弾性波「賞賛されている男性像」に合致しづらい状況にあるので「現在の女性差別的な社会では「社会は男性に優位にできて」いますが、しかしながらそこで標準として認められる男性だけでは、困難な状況下にいる男性のことを考えるには不十分だということも、トランスの視点を通せば具体的にみえてくることです(p204)」トランスの視点から男性学を豊かにして、向かい先を見定めようということを示している。
ノンバイナリーの状況は、フェミニズムや男性学と違い、不可視化されてきたノンバイナリーが何をもとめておるのか?ということだが、これは「あらゆるところに存在する過剰な男女分けをやめてほしいというものです(p206)」過剰な男女の区分分けは、社会を円滑にするのではなく、無駄に疲弊させていることになっていないか?という問題提起でもある。米国のオーケストラで、演奏家の採用時にカーテンを一枚隔てることにyって、視覚情報ではなく音楽的要素を重視して女性演奏家も選出するようになり、性別というバイアスを取りのぞいてオーケストラの質が向上したという結果があることが紹介されている。そして家父長制とむすびついて日本の戸籍登録の廃止や、「らしさ」の強要、そして男女二分法を当たり前のものとして、あるべき性別らしさを教え込む学校という装置についても「現在、学校は男女の違いを教え込む場所になってしまっています。それは、女性よりも男性の方が偉いという誤った社会常識を浸透させるために学校が機能しているということでもあります。ノンバイナリーの存在を前提とした学校、ひいては社会派、全ての人にとっても生きやすい学校・社会になるはずです。まずは、そうした着眼点かをもとところから環境を見直してみるのもよいでしょう(p210)」と鄭さんされている。
トランスジェンダーやノンバイナリーへの差別をなくすだけでなく、彼ら、彼女らの視点から学び、より豊かな、誰もが生きやすい社会を目指すための一歩となる、そんな本であった。
トランスジェンダー入門 (集英社新書) [ 周司 あきら ]
法律では、同性婚の問題についても触れられている。同性婚は「LGB」の問題であってTは関係ないのでは?と思われるかもしれないが、先にも述べた通り日本の「特例法」には未婚要件があって、これは「同性婚」になることを防ぐためのものだから、同性婚が認められれば特例法に未婚要件を入れる必要もなくなる。またトランスジェンダーの人は異性愛者でない人も多いそうで(そういった調査結果もある)LGBとTは違うというのは、概念的には正しくても実態がそんなに簡単なものではないということでもある。そして「そもそも婚姻制度が偏った利益・不利益をもたらす以上、婚姻践祚自体がなくなって然るべきかもしれません。しかしそうした婚姻制度の廃絶のためにも、まずは婚姻平等の推進というかたちで、圧倒的な不均衡が(単婚)異性愛とそれ以外のあいだに存在するという現実を問題化していくことは有益に違いありません(p178)」とまとめている。
日本には。性的マイノリティに対する差別を禁止する法律はないし、包括的な差別禁止法も存在しない。5章では最後にそういった状況や、「LGBT差別解消法」「LGBT理解増進法」制定についても触れた上で、差別禁止法の制定は急務であると述べている。一方5章までの厳しい現実がある中で、トランスジェンダーがただの「可哀そうなマイノリティ」ではなく、自ら行動し、世界を変えるための運動を積み重ねてきたとして、続く6章 フェミニズムと男性学 で社会変革のビジョンを示している。
トランスジェンダーの方が何を求めているか、具体的なものを挙げて見ると(p183~184)
・身体の自律性を持つこと。身体の統合性を侵害されないこと。
・性と生殖について自己決定権を持つこと。
・路上で暴力をふるわれないこと。
・・・
・女らしさ、男らしさを押し付けられないこと。
・・・
・プライベートを詮索されず、個人情報を守られること。勝手にそれらを暴かれないこと。
・安全な環境で働けること。職場で差別されないこと。
・・・
・平等に教育の機会を得ること
・過剰な男女二元論をやめること。どこでも性差が意味を持ちすぎる現状や、その背景にある家父長制がなくなること。
これらの要求は、フェミニズムが求め、獲得してきた権利や正義と幅広く重なっている。また社会の意思決定を下す地位に、少数者であるトラスジェンダーがいないという「過少代表」という状況をあらためなければならない。それはシス男性が意思決定の権力を独占してきたことに対する、フェミニズムが歴史的に問題視し、要求化してきたことともつながる。しかし、単なる目標の一致、敵が同じという問題に留まらないのである。それはフェミニズムが「女性たちの間にある差異」について常に目を配り、留意してきたことから「トランス女性をフェミニズムが置き去りにしてはならないことは明白です(中略)こうした差異が存在するという事実、「女性」が決して一枚板ではないという事実を無視してはいけません。つまりフェミニズムがフェミニズムであるためには、必然的にトランス女性が抱えている課題を共に女性の問題として考え続ける必要があり、また逆にトランス女性たちによる女性解放の訴えは、フェミニズムを間違いなく豊かにするのです(p188)」ということなのだ。
さらにトランスジェンダーが望んでいるのは、「女性/男性はこうするもの」という性別規範・ルールが少しでも緩やかになる社会であり、それはフェミニズムにとっても重要な課題である。しかも「一部のトランスたちは、自身の体験を通して、シスの人が知らない「ジェンダー」の秘密をしっていることがあるからです。
その代表例は、「女らしさ」や「男らしさ」の基準と適用が、実はとても曖昧で、ときに馬鹿らしいものですらあるという事実です(p191)」トランスジェンダーであると「アウティング」された後で、姿や言動が変わっていないにもかかわらず「トランス女性っぽさ」や「男らしさ」が「発見」されてしまうようなことや、「女らしさ」を要求される場合でも、「トランス女性」だけに強いられる「女らしさ」があること(短髪にしても、シス女性なら「かっこいい」と許容されることが、トランス女性だとミスジェンダリングされ、差別を受ける確率が高くなるなど)そいうった「違い」に目を凝らす必要がある…「フェミニズムはときには失敗を繰り返しながら、「らしさ」の規範の多様性に目を凝らし、多様な女性たちと共に歩もうと努力を積み重ねてきました(p194)」
また「リプロダクティブ・ライツ(生殖の権利)」という…中絶や避妊のような「子どもをもたないことを選ぶ権利」だけではなく、意に反して不妊化を強いられない権利、子どもを持つ権利、安全に子育てする権利が含まれているのだが、こうした権利はフェミニズムが求めてきたものである。ところが日本の「特例法」では不妊化が強制され、リプロダクティブ・ライツを侵害している。「意に反する不妊化を強いられてよい人などいません。フェミニズムの歴史は、私たちにそう教えています。性別承認のために子宮や卵巣、精巣の摘出を強いられているトランスの状況を変え、トランスの生殖の権利を守るために立ち上がることは、まさにフェミニズム自身の課題でもあるのです(p196)」ということで、フェミニズムがトランスの課題を考えざるを得ないのだ。
フェミニズムがある一方で「男性学」というものもある。これは「人間」として自明のものとしてとらえられていた「男性」をジェンダーの視点からとらえ直し、「男性性」や「男らしさ」が社会的にどう構築されてきたか多角的にとらえる学問なのだが、男性の特権性のみならず、男性が抑圧された軽経験や、男性内の差異や多様性を考えるものでもある。ここに「トランスジェンダーの視点を取り入れるとどうなるか、「トランスジェンダーの経験を参照すれば分かるように、男らしさから距離を取ったりそこから排除されてきたりした男性もいます。(中略)それだけでなくトランスジェンダーの存在は、いかにして「男性」や「男らしさ」が社会的に作られてきたのか、暴く際のヒントにもなります(p198~199)」ということだ。
男性内においても不平等があり、またトランス弾性波「賞賛されている男性像」に合致しづらい状況にあるので「現在の女性差別的な社会では「社会は男性に優位にできて」いますが、しかしながらそこで標準として認められる男性だけでは、困難な状況下にいる男性のことを考えるには不十分だということも、トランスの視点を通せば具体的にみえてくることです(p204)」トランスの視点から男性学を豊かにして、向かい先を見定めようということを示している。
ノンバイナリーの状況は、フェミニズムや男性学と違い、不可視化されてきたノンバイナリーが何をもとめておるのか?ということだが、これは「あらゆるところに存在する過剰な男女分けをやめてほしいというものです(p206)」過剰な男女の区分分けは、社会を円滑にするのではなく、無駄に疲弊させていることになっていないか?という問題提起でもある。米国のオーケストラで、演奏家の採用時にカーテンを一枚隔てることにyって、視覚情報ではなく音楽的要素を重視して女性演奏家も選出するようになり、性別というバイアスを取りのぞいてオーケストラの質が向上したという結果があることが紹介されている。そして家父長制とむすびついて日本の戸籍登録の廃止や、「らしさ」の強要、そして男女二分法を当たり前のものとして、あるべき性別らしさを教え込む学校という装置についても「現在、学校は男女の違いを教え込む場所になってしまっています。それは、女性よりも男性の方が偉いという誤った社会常識を浸透させるために学校が機能しているということでもあります。ノンバイナリーの存在を前提とした学校、ひいては社会派、全ての人にとっても生きやすい学校・社会になるはずです。まずは、そうした着眼点かをもとところから環境を見直してみるのもよいでしょう(p210)」と鄭さんされている。
トランスジェンダーやノンバイナリーへの差別をなくすだけでなく、彼ら、彼女らの視点から学び、より豊かな、誰もが生きやすい社会を目指すための一歩となる、そんな本であった。

