安倍晋三銃撃事件によって改めて明らかになった、カルト宗教兼反共政治団体「統一協会(統一教会…以降、本来の略称の統一協会としたい)」と自民党をはじめとする日本の保守反動政治家との癒着問題であるが、まぁリベラル系の方々では統一協会の「反社会性」カルト性を大問題として取り扱う傾向があるし、もちろん統一協会の右翼的・反動的で家父長制を強制する思想・政策が、自民党のそれとシンクロしつつ、むしろ自民党がそれを利用し政策を実現させてきたことを問題にすることが多い。
 一方、左翼の中には、一カルト宗教、統一協会を批判するならば、より日本で影響力のある「天皇制」やそれを支える「天皇教カルト」「天皇制カルト」を批判する必要があると説くものもいる。実は本日の梅田解放区でも、そのような発言があった。では「天皇教カルト」とはそもそも何だろう?
 わけが分かっていないにもかかわらず、なんとなく同じような意味の言葉でざっくりくくってしまう、例えば”ファシズム”や”ヘイト”なんかがそうであるように、”カルト”もそういった使われ方がなされている。しかしそれでなんとなく何か表現したり、批判したりした気分になるのはやはりよろしくない。言葉は丁寧につかうべきである。
 ということで「コトバンク」によるカルトの定義であるが、単に宗教上の「異端的または異教的小集団」をさす言葉であるそうな。ところがこういった「カルト宗教」が「強制的な勧誘によって入信させたり、多額の寄付金を強要したりして人権を侵害し、さまざまな反社会的行動をする教団が少なくないから」問題になっているわけだ。統一協会が監禁・洗脳による強制的な入信や、霊感商法、そしてみぐるみをはぐまで財産を寄付させる手法が、まさにそれだ。では「天皇教カルト」は、まぁ右翼団体がヤバくて危険そうなことを見れは「反社会的行動」をとっていることは分かるが、そもそも何の「異端」なのだろうか?いや、「天皇教」とは何だろう?
 今「天皇教」と書いた…これは「天皇制」とそれを支える宗教的感情をあえて分けたものである。天皇制は、「天皇教」に支えられた、天皇を頂点とする政治体制であるとざっくり理解しておけば、とりあえずこの場は良いだろう。その制度はもちろん、古代に成立したものの歴史を経てその内容やあり方は変化している。明治維新以後も、絶対王政的な政治制度の中に、ブルジョワ民主主義をぶっこんで民衆を抑圧する装置として成立したが、第二次大戦の敗戦・占領によって絶対王政的なあり方を強制的に「国民統合」やアメリカ的民主主義の「象徴」として上に君臨するものに変化している。
 そういった構造や体制を有難がって、下から支えるものが「天皇教」であると考えてよいであろう。それの「教義」は、とにかく、天皇は国をつくった「天照大神」の万世一系の子孫であるから(「神話」の内容が信じられなくても、とにかく「神武天皇」とやらの万世一系の子孫で長くつづいているから…という理屈に変わっているかもしれないが)尊重しなければならず、国の中心にいなければならないというものである。そして、それを支える「記紀神話」の体系は、アニミズムから発生した「何にでも神がやどる」というものからきているが、その神々を無理やり「天皇家」の下に序列化させたものである(その過程で「まつろわない」神々は神としての資格を失ったりしたようだ)
 こういった素朴でざっくりとした”原始宗教”は解釈のしようがないため、一旦決まると分派などは起こらず(起こるとすると、天皇以外の別のヤツが一番エライとする他なく、天皇制が認めない「易姓革命」を起こさざるを得ない)ずっとそのまま素朴に信仰が続いていくか、別の有力な宗教、日本においては仏教や儒教にとってかわられるものだ。日本においても神道が”神仏混交”して、神様≒仏様として信仰がつづいてきたのがその例である。天皇および天皇制をありがたがる「天皇教」もそういった変容を遂げていくのだが、江戸時代にそれを体系化しようという試みが出てくる。それが「国学」として進化を遂げるわけだ。国学の体系や理論について、ここでは詳しく述べないし私もほとんど知らないが、幕末騒乱から明治維新によって権力を握った連中…すなわち長州藩の一味、吉田松陰とその弟子たちという、日本全国からみればホンの一部の人たちが理解していた国学の潮流が、維新後の天皇制を構築し、イデオロギー的位置づけを与えたと考えてよいだろう。またその教義は天皇を頂く日本国、そこの住民にのみ有効であり、外部にドンドン布教していくものではない。その「天皇教」、別の言い方をすれば「国体思想」が、とりあえず現在まで抜本的な批判もうけずにズルズルと続いているとすれば、現在の日本の天皇教は、数多くの国学の体系の中の一部の「カルト」が発展してできたものであり、世界的に見ても広がりをもたないカルト宗教であるといってもよかろう。
 だがキリスト教が典型だが、多くの宗教が既存の宗教の批判から生まれているように、最初は「カルト」だったわけである。それが多くの人から支持を受け、信仰されれば「カルト」ではなくなる。少数の長州藩の連中が信じた「天皇教カルト」も、日本全国の人が信仰するようになれば、もはやカルトとは言えないだろう…そうすると、現在の天皇教が信仰を広めていく、あるいは現在維持していく過程で「反社会的行動」をしてきたか?ということのほうが、「天皇教」を”カルト”呼ばわりするのにふさわしい理由であるということが言えそうだ。
 だがこれはすごく厄介な問いの立て方だ。国内に天皇教を広めるにあたり、戊辰戦争から始まる内乱や、自由民民権運動への弾圧、さらに廃仏毀釈などの暴力的な強制があったわけだが、一番最後のヤツを除いて、それらはみ~んな国家が合法的に手を下したものである。また日本帝国主義が北海道、沖縄、台湾、朝鮮へと侵略を続ける中、天皇教を強制するために振るわれる暴力もまた合法的に手を下すものだ。民間の、例えばオウム真理教や統一協会が「反社会的行動」を取ってカルト扱いされているのとはわけが違うのだ。もちろん、天皇教カルトが広がった中において、民衆がその教義により暴力をふるう…関東大震災時における朝鮮、中国人に対する虐殺や、朝鮮・中国その他における民間による残虐行為がそれにあたる…ケースもあるのだが、それは国家権力がお墨付きを与えているのだ。このへんは統一協会について自民党政権がお墨付きを与え、霊感商法などを取り締まらないことと似ているものの、やはり国家の主たるイデオロギーとしての天皇教と、外からやってきた、利用しているだけの異教のイデオロギーとは位置づけが違ってくるだろう。

 いろいろと考察してみたが、「天皇教カルト」の呼び方は少し乱暴な言葉の使い方であると思う…ただ言えることは、「天皇教」自体、オウム真理教や統一協会といったカルト宗教より恐ろしい、暴力的な存在であり、それをきちんと批判していかなければならないということになるだろう。