さて、「江戸の憲法構想」の中から興味深いお話を拾い出してみる…

![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)
その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!
とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。

![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)
その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!
とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。