ちくま新書から「検証大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体」(吉弘憲介 2024年7月)という維新検証本が出ているので、読んでみた。

![検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/6274/9784480076274_1_85.jpg?_ex=128x128)
検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
なぜ維新が(大阪で)支持されているのか、どういった層が維新を支持しているのか?ということについて検証している本や論考は多いが、本書では年齢や所得階層で分けられた特定の層が維新を支持しているわけでも、あるいは維新を支持している大阪の民衆が「特殊な人びと」というわけではないこと、維新支持でも個々の政策には「是々非々」の合理的な判断を下していること(例えば都構想や万博など)を示している。維新は新自由主義を標榜する政党であるが、大阪の行財政は必ずしも維新がかかげるような「小さな政府」にはなっていない(アメリカのレーガン政権でさえ、財政運営については「小さな政府」にはなっていないそうだ)…いったん大きくなった財政をカンタンに「小さな政府」に変えることは、非常に困難なことなのだろう。吉弘氏は、本書第四章「財政から読みとくー維新の会は「小さな政府」か の最初のほうで、
大阪維新の会の政策についても、新自由主義や「小さな政府」論という観点から理解したり批判したりすることが、適切ではなくなっている。(p103)
この第四章で、大阪市財政を分析し、大阪維新の財政運営について
①公務員改革による人件費と公務員の大幅な削減。
②外郭団体の削減、委託事業の民間部門への割り当て。
③地方債の返済、新規の市債発行の抑制、債務総額の減少。
④教育費における頭割りの普遍主義、社会保障の緩やかな削減。
⑤都市中心部開発による投資的経費の増大(コロナ禍においても同傾向)。(p144)
というふうにまとめている。維新行政とは、①②でういたお金を、③④⑤にまわすという手法をとっているわけだ。また維新批判派は、①②③を見て維新を、新自由主義政治と批判してきたわけである。
ここで④に「普遍主義」という言葉がでてくる…これは公共財や、教育や医療といった人間の尊厳や生命を守るためのサービスを政府がどう分配するか?というときに、自力ではサービスを購入できない人、困窮者にたいしてのみ提供していくというのが「選別主義」であり、国民全体に提供するというのが「普遍主義」である。大阪維新がすすめる私立高校の授業料無償化やその所得制限の撤廃という政策は、普遍主義にもとづくものなのである。
一般的に「普遍主義」に基づいて政府が公共サービスを提供するほうが、「選別主義」よりも多くの財源が必要となる。ところが大阪市の人口一人当たりに支出される公的な教育費は2011年前後と比較しても大きく変わっているわけではない。ただ内訳けをみると、例えば事務手続きや教育委員会業務を扱う教育総務費や、特別支援学校の運営費は下がっており(後者については大阪府に移管したため、実質0である)小学校費、中学校費はあがっている。教育総務費は公務員人件費抑制の面から説明できるが、特別支援学校運営費削減はマイノリティのニーズには答えない…ということである。これを吉弘氏は
限られた財源の範囲内でマジョリティへの配分を意識する維新の教育政策は、普遍主義的な発想でありながら、その陰でマイノリティから財を奪い、社会的分断を生み出しかねない。(p136)
と述べている。
既存の「選別主義」の配分では、支出の対象が低所得者や社会的に困難を抱えている人、マイノリティに限られるのだが、それでは中間層以上には公共サービスの配分を受けられない…マジョリティにとっては受益の機会が乏しいわけだ…その既存の「選別主義」よる配分を「既得権益だ!」と攻撃して解体し、その予算を頭割りで「普遍主義」的に配分する…それが維新のやってきた、私立高校の授業料無償化などの教育財政なのである。吉弘氏はいう
不要な支出を削減し、新たに必要な対象に普遍的に配るのであれば、資源配分上の問題は生じないだろう。問題は、既存の配分方法が、特定の人びとにとっては必要不可欠なサービスであった場合である。人びとが持つ財政や政府に対する不信感を梃子に登場した政党だからこそ、彼らは何としても毀損の配分が「無駄なもの」であると主張しなくてはならない。また、追加の税負担を市民に強いることは、極力避けなくてはならない。この性格は、維新の会の財政運営が極めて均衡財政主義的であったことからもうかがえる。
以上の制約の中で生まれるのが、財政ポピュリズムである。既存の配分を取り上げ、頭割りに配り
直すことで人びとの支持を調達する。しかし、追加の税負担を要求することは、過去に行った既得権益批判の文脈から難しくなる。こうした中で、自らの支持者に配分するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いてでも既存の配分を解体するしかなくなるのである。
この条件のもとでは、仮に配分方法が普遍主義的であったとしても、改革後の公共サービスが社会の各分野において必要水準を十分満たしているとは言い難くなる。そもそも、所得制限を撤廃した教育費無償化政策には「マタイ効果」と呼ばれる格差の拡大を助長する効果も指摘されており、普遍主義的な配分が自動的に社会内の問題を解決するわけではない。近年、オランダでは普遍主義的配分がもたらす格差拡大効果が問題視され、選別主義と普遍主義の両方をバランスよく組み合わせることこそ重要であるとの指摘もなされている。それを考えると、大阪維新の会が行った政策の合意は、日本国内にとどまらず世界的に共通した公共政策上の隘路といえるかもしれない。(p147~148)
「財政ポピュリズム」という言葉がでてきたが、要するに「選別主義」的な財政運営をしていればその恩恵を得られない中間層、マジョリティ(単なる新自由主義における「勝ち組」ではないことに注意!)の支持をとりつけるため、既存の配分を(暴力的にでも)解体して「普遍主義」的に頭割りで分配しましょう!ということだ。なるほど、これが「身を切る改革」「既得権益と闘う」維新を支持する多くの人びとの”根源的”な理由かな?ということがよく理解できる。
しかし、財政ポピュリズムが「自己利益を最大化する合理的個人」からいくら支持されても、公共財・サービスというものは市場を通じて合理的に取引しても供給できないものである。そのため
財政は個人の合理性を超えて運営されなければならない…要するに「理想」「理念」が必要なのだ…吉弘氏は
維新の会が行う財政ポピュリズムが合理的個人にとって魅力的に映るとしても、それは財政の本質的な否定にほかならない。財政を信用できないからといって、財政を解体して個人に繰り戻しても、社会全体は徐々に貧しくなっていくことになるだろう。(p149)
と述べている。
「財政ポピュリズム」の問題については、また別途ふれていきたい。

![検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/6274/9784480076274_1_85.jpg?_ex=128x128)
検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
なぜ維新が(大阪で)支持されているのか、どういった層が維新を支持しているのか?ということについて検証している本や論考は多いが、本書では年齢や所得階層で分けられた特定の層が維新を支持しているわけでも、あるいは維新を支持している大阪の民衆が「特殊な人びと」というわけではないこと、維新支持でも個々の政策には「是々非々」の合理的な判断を下していること(例えば都構想や万博など)を示している。維新は新自由主義を標榜する政党であるが、大阪の行財政は必ずしも維新がかかげるような「小さな政府」にはなっていない(アメリカのレーガン政権でさえ、財政運営については「小さな政府」にはなっていないそうだ)…いったん大きくなった財政をカンタンに「小さな政府」に変えることは、非常に困難なことなのだろう。吉弘氏は、本書第四章「財政から読みとくー維新の会は「小さな政府」か の最初のほうで、
大阪維新の会の政策についても、新自由主義や「小さな政府」論という観点から理解したり批判したりすることが、適切ではなくなっている。(p103)
この第四章で、大阪市財政を分析し、大阪維新の財政運営について
①公務員改革による人件費と公務員の大幅な削減。
②外郭団体の削減、委託事業の民間部門への割り当て。
③地方債の返済、新規の市債発行の抑制、債務総額の減少。
④教育費における頭割りの普遍主義、社会保障の緩やかな削減。
⑤都市中心部開発による投資的経費の増大(コロナ禍においても同傾向)。(p144)
というふうにまとめている。維新行政とは、①②でういたお金を、③④⑤にまわすという手法をとっているわけだ。また維新批判派は、①②③を見て維新を、新自由主義政治と批判してきたわけである。
ここで④に「普遍主義」という言葉がでてくる…これは公共財や、教育や医療といった人間の尊厳や生命を守るためのサービスを政府がどう分配するか?というときに、自力ではサービスを購入できない人、困窮者にたいしてのみ提供していくというのが「選別主義」であり、国民全体に提供するというのが「普遍主義」である。大阪維新がすすめる私立高校の授業料無償化やその所得制限の撤廃という政策は、普遍主義にもとづくものなのである。
一般的に「普遍主義」に基づいて政府が公共サービスを提供するほうが、「選別主義」よりも多くの財源が必要となる。ところが大阪市の人口一人当たりに支出される公的な教育費は2011年前後と比較しても大きく変わっているわけではない。ただ内訳けをみると、例えば事務手続きや教育委員会業務を扱う教育総務費や、特別支援学校の運営費は下がっており(後者については大阪府に移管したため、実質0である)小学校費、中学校費はあがっている。教育総務費は公務員人件費抑制の面から説明できるが、特別支援学校運営費削減はマイノリティのニーズには答えない…ということである。これを吉弘氏は
限られた財源の範囲内でマジョリティへの配分を意識する維新の教育政策は、普遍主義的な発想でありながら、その陰でマイノリティから財を奪い、社会的分断を生み出しかねない。(p136)
と述べている。
既存の「選別主義」の配分では、支出の対象が低所得者や社会的に困難を抱えている人、マイノリティに限られるのだが、それでは中間層以上には公共サービスの配分を受けられない…マジョリティにとっては受益の機会が乏しいわけだ…その既存の「選別主義」よる配分を「既得権益だ!」と攻撃して解体し、その予算を頭割りで「普遍主義」的に配分する…それが維新のやってきた、私立高校の授業料無償化などの教育財政なのである。吉弘氏はいう
不要な支出を削減し、新たに必要な対象に普遍的に配るのであれば、資源配分上の問題は生じないだろう。問題は、既存の配分方法が、特定の人びとにとっては必要不可欠なサービスであった場合である。人びとが持つ財政や政府に対する不信感を梃子に登場した政党だからこそ、彼らは何としても毀損の配分が「無駄なもの」であると主張しなくてはならない。また、追加の税負担を市民に強いることは、極力避けなくてはならない。この性格は、維新の会の財政運営が極めて均衡財政主義的であったことからもうかがえる。
以上の制約の中で生まれるのが、財政ポピュリズムである。既存の配分を取り上げ、頭割りに配り
直すことで人びとの支持を調達する。しかし、追加の税負担を要求することは、過去に行った既得権益批判の文脈から難しくなる。こうした中で、自らの支持者に配分するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いてでも既存の配分を解体するしかなくなるのである。
この条件のもとでは、仮に配分方法が普遍主義的であったとしても、改革後の公共サービスが社会の各分野において必要水準を十分満たしているとは言い難くなる。そもそも、所得制限を撤廃した教育費無償化政策には「マタイ効果」と呼ばれる格差の拡大を助長する効果も指摘されており、普遍主義的な配分が自動的に社会内の問題を解決するわけではない。近年、オランダでは普遍主義的配分がもたらす格差拡大効果が問題視され、選別主義と普遍主義の両方をバランスよく組み合わせることこそ重要であるとの指摘もなされている。それを考えると、大阪維新の会が行った政策の合意は、日本国内にとどまらず世界的に共通した公共政策上の隘路といえるかもしれない。(p147~148)
「財政ポピュリズム」という言葉がでてきたが、要するに「選別主義」的な財政運営をしていればその恩恵を得られない中間層、マジョリティ(単なる新自由主義における「勝ち組」ではないことに注意!)の支持をとりつけるため、既存の配分を(暴力的にでも)解体して「普遍主義」的に頭割りで分配しましょう!ということだ。なるほど、これが「身を切る改革」「既得権益と闘う」維新を支持する多くの人びとの”根源的”な理由かな?ということがよく理解できる。
しかし、財政ポピュリズムが「自己利益を最大化する合理的個人」からいくら支持されても、公共財・サービスというものは市場を通じて合理的に取引しても供給できないものである。そのため
財政は個人の合理性を超えて運営されなければならない…要するに「理想」「理念」が必要なのだ…吉弘氏は
維新の会が行う財政ポピュリズムが合理的個人にとって魅力的に映るとしても、それは財政の本質的な否定にほかならない。財政を信用できないからといって、財政を解体して個人に繰り戻しても、社会全体は徐々に貧しくなっていくことになるだろう。(p149)
と述べている。
「財政ポピュリズム」の問題については、また別途ふれていきたい。