最近、話題になっている「資本論」本について…
 「武器としての『資本論』」(白井聡 東洋経済新報社 2020年4月)は、資本論の解説、あるいは入門書としての体裁をとっている。私は資本論の入門書とかはほとんど読んだことがないので、この本が他のものと比較して良いのかそうでないのかは分からず、読んでみたら「まあこんなモンか」という感想しかない。もっとも「入門書」だからその後…資本論を読んでみる、あるいはマスクス主義を学習する…につながればいいので、そのへんは読者に委ねられる。もちろん入門・解説だから資本論第一巻の範囲で、第二巻、第三巻には触れない。また今日の資本主義の基軸である金融資本(G-G´)についてはさわりしか触れられない。

武器としての「資本論」 [ 白井 聡 ]
武器としての「資本論」 [ 白井 聡 ]
 本書では資本論の王道・商品とは何か?というところから始まり、その解説にページが割かれる。白井氏は

 この「商品による商品の生産」が登場して初めて、物質代謝の「大半」が商品によって扱われ
るようになったと言える。そしてこの「大半」の度合いが際限なく高まり続けるのが、資本主義社会特有の傾向であり、宿命なのです。(p45)

と説く。なんでも商品化してしまうのが、資本主義社会なのだ。もっとも私的に言えば、資本制、資本主義的生産様式が主流の社会では、資本が「剰余価値」を求めるために動き、そのための手っ取り早い方法が「商品生産」なんですよ!ということなんだが。
 「剰余価値」についての説明は本書の7講「すべては資本の増殖のために」で展開されているが、人は「賃金」以上に価値を生産しているというざっくりした話ではなく、必要労働は4時間なのだが、実際は8時間働いていますよ!という説明のほうがよいのではないか?私にはそっちのほうが分かりやすかった。
 「本源的蓄積」…資本主義の「始まり」が暴力的に、血塗られて始まっていること…がちゃんと第11講「引きはがされる私たち」(実際はそれより前のページから)で展開されているのが良い。(だから映画「マルクス・エンゲルス」は、官憲が元の入会地に“侵入”した農民を取り締まるべく襲い掛かり、容赦なくメッタ打ちにするシーンから始まるのだ)そして白井氏は近年の新自由主義拡大の中で、

 このようにしていったんは安定化された労働者の地位をグニャグニャにして再びはじまりの労働者に戻すことです。言い換えれば、労働者が置かれてきた社会環境・権益から、労働者を引きはがすことにほかなりません。その意味でこの過程は、歴史上のではなく、現在進行中の本源的蓄積です。(p215)
 
と説く。新自由主義政策とは、ある意味「本源的蓄積」と同様の暴力性をもって進められているのである。
 そこで必要なのが「階級闘争」である。ただし、旧来の階級闘争の戦線は総崩れになっている。第13講「はじまったものは必ず終わる」で、「共産党宣言」に始まるマルクスの階級闘争論が展開されているが「収奪者が収奪される」…隣の資本家をぶん殴ればいいというわけではない(「収奪者を収奪」といのは、生産手段なんかを労働者階級が分捕ることなので、資本家を「ぶん殴る」ことではないのだが…)構造を変えましょう!資本主義には必ず「終わり」があるのだから!ということである。
 最終の第14講「「こんなものが食えるか!」と言えますか」において、ソ連初期のマルクス主義法学者、エフゲーニ・バシュカー二フの話は興味深い。封建時代において、例えば領主(政治権力に年貢をおさめるという収奪方法は、政治的行為でもあるし、経済的行為でもあった。だが資本制社会では収奪が行われても、それは「等価交換」であり、収奪は行われていない。国家権力がや法がストレートに収奪をしているわけではなく、「等価交換」がちゃんと行われているか規制しているだけである。
 バシューニカスはここを捉えて、「政治的社会と経済的社会が分離し、別物になることが、資本制社会の特徴である」と指摘しています。このようにして近代の国家権力の、前近代それとの根本的な違いを精密に分析して、描き出したのです。
 ではこの状態からコミュニズムを実現するためには、何をしなければならないのか。またコミュニズムが実現されたとは、どんな世の中なのか。
 バシューニカスの結論は、「等価交換の廃棄」でした。
 ここでのポイントは、「ブルジョワ階級の絶滅」ではないということです。(p265)
 まぁ、「資本家を滅ぼすこと」が階級闘争の目的ではないということだが、バシューニカスがスターリンに弾圧・処刑されてしまい、こういったラディカルな法学がソ連から消えてしまった。
それはともかく、白井氏は「資本論」の中に等価交換を錯乱する契機がどこかにあるのではないか?と探す…「労働力の等価交換」と言っても、どこまでが必要な労働なのか、等価の価値は上下する、白井氏は

 何を必要不可欠だとみなし、何を別に必要ではないとみなすのか、曖昧な言い方になりますが、それは文化的に決定されると言うべきでしょう。(p269)

と述べ、イギリス料理がまずい話(産業革命以降、まずくなったそうだ)、ニュージーランドでも20年前は羊ばかり食べていたのが、今は味のないブロイラーを食べている(羊肉や牛肉は輸出に回されて高くなったそうだ)ことを引きながら、「それはいやだ」と言えるかどうか、そこが階級闘争の原点になると説く!たんに「美味い物を食いたい!」というところから階級闘争を始めよう!ということでなく(そうゆうところもあるのだろうが)

 それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。(p280)
 
ということなんだそうな。

 この本を読んだら、資本論も読んで、感性を研ぎ澄まして、「階級闘争」やって人間の尊厳を取り戻そう!というアジテーションなのである!