たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

#パラリンピック

なぜ障がい者スポーツが”別枠”なのか?

 昨日の梅田解放区で、障がい者の方によるパラリンピック批判があった。「出来る」障がい者だけが称えられる問題、戦傷者のリハビリから始まったという問題の外に(参考記事:パラリンピックも批判しておく)なぜ障がい者だけ”別枠”の大会なのか?というものがあった。障害者と健常者が「オリンピック」という”同じスポーツ大会”に参加しているわけではない、オリンピックとパラリンピック(オリンピックと「同等」であるという表記ではあるが)別の大会で、それぞれ競い合っているのはなぜだ?ということだ。
 なるほど、それは私も気づいていなかった…障がい者だけ”別枠”の大会であるということは、障がい者を施設などに”隔離”しておく、障がい者は養護学校、養護教室に行けばいいんだという思想と等価であるという批判である。

 確かに健常者と障がい者が同じ条件、同じ土俵で競い合う事は不公平である。また障がい者スポーツは障害の部位や程度によって、様々なクラス分けがなされたうえで競い合っている。
 だが健常者のスポーツも、柔道等体重別にクラス分けされているものを、同じ大会で同時進行して競い合っている。健常者のスポーツに、障害者のクラスも入れ込んで、同じ大会で同時に競い合うということも可能だろう。
 もちろん大会運営は、めちゃめちゃ手間がかかるようになる。参加する人の介助も必要だし、また健常者スポーツと障がい者スポーツでルール等が違うこともあるから、同じ大会で審判や審査員等の人数も増えるだろう。

 で、こんなことを考えると、もう一段、余計なことを考えてしまう…例えば車椅子マラソンなぞ、健常者が車椅子に乗り、上半身だけで走ってはイケナイものなのだろうか(公平性の確保とかいろいろ問題はあるのかも知れないが)障がい者スポーツに健常者があるルールをもって競技すること、逆に健常者のスポーツで、そのスポーツを行うにあたって別に支障のない障害をもつ障がい者が競技する(もうすでにそのような選手はいるのだろう)というようなこと、さらには健常者と障がい者の混成チームで競技する…ルールは健常者と障がい者の比率や、障害の程度によってきめ細かく替える…いや、そもそも競技はするけど、競争はしない、健常者と障がい者の枠をとっぱらって、思い思いにスポーツを楽しむ大会をやる…というのも、エエかもしれない。

 健常者と障がい者のスポーツにおける”区分”や”枠組み”は、決して今ある形がベストということではない。障がい者差別解消のための闘いの中から生まれてきた、バリアフリーや、共存・共生社会、多様性の尊重といった理念を少しずつ実践しながら、よりいい方向に変わっていくだろうし、変えなければならない。

 ドラえもんが生まれる100年後の未来には、健常者も障がい者も同じスポーツ大会で競い合い、いっしょにスポーツを楽しんでいるのではないだろうか?

パラリンピックも批判しておく

 先日、13日夕方の梅田解放区にて、子どもが障がいをもっているという方がパラリンピックを批判した。曰く、自分の子どものように、”(スポーツとかが)できない”障がい者が取り残されること、そしてパラリンピックの始まりが、戦争で負傷した兵隊のリハビリのために始まったもので、戦争を批判するものではないということであった。
 障がい者がスポーツを楽しむ、競技で競争すること自体、否定されるものではない。障がい者スポーツの認知・普及において、オリンピックと同時に行われるパラリンピックの果たす役割は大きいだろう。だが、オリンピックと同時に行うことで、結局「勝者」のみが過大に称えられる…批判者の子どもさんのような、”できない”障がい者はより一層、肩身の狭い思いをする…のみならず、特に「新自由主義」的になんでも能力・生産性で測られる、その裏には「優生思想」があるような社会において、障がい者を競わせるパラリンピックを手放しで称えるわけにはいかないのだ。
 また障がい者がスポーツをするためには、特殊な義足など器具に頼ることも多い。器具の”良し悪し”が競技に影響する度合いが、「健常者のスポーツ」よりも大きいし、競争で競うためには、それらの条件もそろえる必要がある…どこまで器具・道具に頼るのが”スポーツ”として認められるのか?また、器具が用意できない経済状態の国や地域、人はどうするのか?もちろんこれらは「健常者のスポーツ」も同様に持つ課題であり、スポーツにおける差異と差別や格差について根源的に考えると、一筋縄ではいかないのは言うまでもない。
 ちなみに後者の批判…パラリンピックは戦争で負傷した兵隊のリハビリのために始まった…というお話は、ハイフォンポストの2016年9月の記事「パラリンピックの「パラ」の意味 障害者の苦難と希望の歴史がそこにある」に詳しい。第二次世界大戦、特にノルマンディー上陸作戦で脊髄損傷を負った兵士たちにスポーツをさせたこと、1948年、ロンドンオリンピックの開会式と同じ日に退役軍人が参加したアーチェリー大会、それが初回「ストーク・マンデビル競技会」となり、パラリンピックにつながっているということだ。もちろん、これを始めた医師(亡命ユダヤ人でもある)グッドマンは、障がいを受けた人に生きる希望を持ってもらうために善意で行ったことは言うまでもない。亡命ユダヤ人がナチスと闘って負傷し、障がいを受けた兵士のために始めた…というストーリーが、障がい者を生み出す「戦争」そのものへの批判を含まないものになっているのではなかろうかとも思う。もし”始まり”がアメリカのベトナム戦争で負傷した兵士のリハビリであったなら、パラリンピックの発するメッセージはもっと違うものになっていたであろう。なお、障がい者スポーツはそれ以前から行われており、それらも含めたパラリンピックの歴史は、日本パラリンピック委員会のパラリンピックの歴史に記述がある。
 パラリンピックの「パラ」とは、もともと
「Paraplegia(対まひ者)」の「Olympic」=「Paralympic」という発想から、東京大会の際に日本で名付けられた愛称だったのだが、85年からギリシア語の接頭語であるパラ=Para(沿う、並行)+Olympic(オリンピック)と解釈することになったそうだ。ハフポストの記事では「対等」の意味をもつとしている。 
 いずれにせよ、オリンピックと「対等」であるならば、パラリンピックもまたその政治性、商業主義そして差別・抑圧性もまた「対等」「同等」であることに他ならない。他のスポーツも同じことだが、障がい者スポーツの認知・普及に努力している方その他関係者の努力はともかく、パラリンピックもやってはイケナイのである。

おまけの話…「パラ」とは「平行」「対等」という意味を持つとはいえ、なんかやっぱり主流とは違うというイメージは避けられない。感染症で「腸チフス」「パラチフス」というのがあるが、どちらも臨床的にはほぼ同様の症状を示す。ただし「パラチフス」のほうが症状が軽いことが多いようなので、やっぱり「パラ」には格下感?が漂う。もっとも「腸チフス」と「パラチフス」が区分されているのは、もともと腸チフスの患者からチフス菌が1880年に発見されたのだが、後に腸チフスの症状を発している人から別の菌(パラチフスA菌)が発見されたため、別の病気という事で分類されているようだ。ただしどちらの菌もサルモネラ属に属するよく似た菌である。どちらも抗菌剤でぶっ殺すことができる。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

最新コメント
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ