たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

読書

「財政ポピュリズム」はなぜ問題なのか?

 先日紹介した「検証 大阪維新の会「財政ポピュリズム」の正体」(吉弘憲介 ちくま新書 2024年7月)の紹介のつづき…(前回はこちら
検証「大阪維新の会」20240813

検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
 大阪で維新がとってきた「財政ポピュリズム」政策について、吉弘氏は
①既存の資源配分を既得権益として解体し②その資源をできるだけ広く配分し直す、その結果③それまで財政を通じた受益を感じづらかったマジョリティからの支持が強化される、というメカニズムが働いていることを浮かび上がらせた。(p183)
と書いている。広く配分し直す際に使われるのは「普遍主義」という考え方なのである。ところが「普遍主義」で税金を使うということは一見「良いこと」のように見える…税金を個人個人の「頭割り」に配分することは「公平」であるようにみえて、それを政治・政党への支持をつなぎとめるために使うことは非常に問題があるのだ。吉弘氏は述べる…
本来、財政によって供給される「公共財」は、利益を個人に分割できない(しない)からこそ、共同の税負担で賄うことが正当化される。さらに、私的財と違い、公共財をどれだけ社会に供給するかは、市場メカニズムによって決めることができない。ここで、共同の経済活動の支出水準や負担構造を決めるのは、個人の地益を超えた「価値」にもとづくのである。(p185)
私たちの世界には、歴史、民族、規範、環境の異なった多様な社会が存在する。その中で、多種多様な財政支出が構成されるためには、個人利益を超えた多様な価値観の共有が必要になる。仮に私的財であっても、社会が共有する価値観に照らして政府が供給すべき財は、財政によって賄われるべきである。これが「価値財」という考え方である。しかし、ある価値に即して共同負担で購入された財やサービスであっても、自己利益追求の視点からは「既得権益」と映ることもあるだろう。
 財政ポピュリズムは、価値によって集合した経済行為を、個人の利益に繰り戻すことで支持を調達する手法である。それは、「集合的経済行為=財政」の根源的否定をはらんでいる。(p186)

 たとえば維新の目玉政策である、高校教育の無償化…所得制限なしで私学であっても授業料が”無料”になる…というのは「普遍主義」に基づく税金の分配であり、多くの人が利益を受け、支持するであろう。そのかわり、公立高校の統廃合が進む、どんな地域に住んでいても、自転車で公立高校に通える(少なくともその選択肢がある)という”一部の”人の便益はなくなる(既得権益?)だけでなく、公的な高校教育を自治体が責任もって行うという「価値観」そのものを否定し、ぶっ壊すことになるわけだ。「学校にいくための金さえだせばエエ」というものではない。
 また「価値観」が共有されない(財政)政策は、維新が打ち出したものであっても支持されない…これが「都構想」が否決され、万博やIR事業への機運醸成に必ずしも成功していないり理由である。これらは「共同の負担によって共同の利益を実現しようとする、まさに財政そのものといえるプロジェクトである。」(p186)からだ。
 また「財政ポピュリズム」は、均衡財政主義とも相性がいい。本来「普遍主義」で税金を配分するには、政府に対する不信感が払拭され、増税や政府規模の膨張に対し人びとの同意を得ながらなされるべきものである。北欧の福祉国家が良い事例である。ところが大阪におけるそれは「増税に対する反発や既存の財政支出への批判を伴った」(p188)ものであり、それこそが「財政ポピュリズム」なのだ。ということは、自民党の「裏金政治」が是正されずに続く限り、いつまでも維新やその他勢力の「財政ポピュリズム」も続く…それは公共という価値観の破壊につながるのだ!
 「財政ポピュリズム」を支持する人は、けっこういるだろう…それが大阪における「維新支持」にもつながっている。
 これまで、税金や社会保険を負担させられながら、そのリターンを享受できたという実感が乏しい人びとは、たとえ誰かが困ろうと、事故里ケ飢餓確保される政治に魅力を感じるかもしれない。
 ここで、注意深く考えなかればならないのは、それでも財政は、個人の合理性を超えた集団の意思決定によって駆動し、さらにそれは回りまわって全体の利益につながってきたという事実である。(p190~191)
 大事なのは、先の公的教育のような事例では、個人が自分に利益があること以外を行わないと合理的に振るまえば、正の外部性が生まれないことである。例えば、自分の子どもに対する教育だけを望んで、公的な教育サービスに対する負担を渋れば、それは回りまわって全体で得られたはずの正の外部性を消し去ってしまう。そして、外部性が消え去った貧しい未来で暮らすことになるのは、他ならぬ自分の子どもたちである。この矛盾を乗り越えるためにこそ、個人の利益を乗り越えて、社会全体の価値を実現しようとする行為、つまり財政がある。(p191~192)

 ということで「財政ポピュリズム」に対抗するため吉弘氏は、個人間で「共有される価値」を立て直すことが必要不可欠であり、「一見遠回りに思えるかもしれないが、共有される価値を再建することが、私たちが真に成長を実感できる社会を生み出すのである」(p195)と結んでいる。しかし、そのための「特効薬」や有効な政策・手段を提起しているわけではない…ただ、こうも言える…維新に対抗するため、維新に学んで「財政ポピュリズム」的な政策・手段を用いてはならない、当面、支持されなくとも「共有される価値」を掲げて、それを取り戻そう!とする政治を目指すべきである、ということだ。 

大阪維新と「財政ポピュリズム」

 ちくま新書から「検証大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体」(吉弘憲介 2024年7月)という維新検証本が出ているので、読んでみた。
検証「大阪維新の会」20240813



検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]

 なぜ維新が(大阪で)支持されているのか、どういった層が維新を支持しているのか?ということについて検証している本や論考は多いが、本書では年齢や所得階層で分けられた特定の層が維新を支持しているわけでも、あるいは維新を支持している大阪の民衆が「特殊な人びと」というわけではないこと、維新支持でも個々の政策には「是々非々」の合理的な判断を下していること(例えば都構想や万博など)を示している。維新は新自由主義を標榜する政党であるが、大阪の行財政は必ずしも維新がかかげるような「小さな政府」にはなっていない(アメリカのレーガン政権でさえ、財政運営については「小さな政府」にはなっていないそうだ)…いったん大きくなった財政をカンタンに「小さな政府」に変えることは、非常に困難なことなのだろう。吉弘氏は、本書第四章「財政から読みとくー維新の会は「小さな政府」か の最初のほうで、
 大阪維新の会の政策についても、新自由主義や「小さな政府」論という観点から理解したり批判したりすることが、適切ではなくなっている。(p103)
 この第四章で、大阪市財政を分析し、大阪維新の財政運営について
①公務員改革による人件費と公務員の大幅な削減。
②外郭団体の削減、委託事業の民間部門への割り当て。
③地方債の返済、新規の市債発行の抑制、債務総額の減少。
④教育費における頭割りの普遍主義、社会保障の緩やかな削減。
⑤都市中心部開発による投資的経費の増大(コロナ禍においても同傾向)。(p144)

というふうにまとめている。維新行政とは、①②でういたお金を、③④⑤にまわすという手法をとっているわけだ。また維新批判派は、①②③を見て維新を、新自由主義政治と批判してきたわけである。
 ここで④に「普遍主義」という言葉がでてくる…これは公共財や、教育や医療といった人間の尊厳や生命を守るためのサービスを政府がどう分配するか?というときに、自力ではサービスを購入できない人、困窮者にたいしてのみ提供していくというのが「選別主義」であり、国民全体に提供するというのが「普遍主義」である。大阪維新がすすめる私立高校の授業料無償化やその所得制限の撤廃という政策は、普遍主義にもとづくものなのである。
 一般的に「普遍主義」に基づいて政府が公共サービスを提供するほうが、「選別主義」よりも多くの財源が必要となる。ところが大阪市の人口一人当たりに支出される公的な教育費は2011年前後と比較しても大きく変わっているわけではない。ただ内訳けをみると、例えば事務手続きや教育委員会業務を扱う教育総務費や、特別支援学校の運営費は下がっており(後者については大阪府に移管したため、実質0である)小学校費、中学校費はあがっている。教育総務費は公務員人件費抑制の面から説明できるが、特別支援学校運営費削減はマイノリティのニーズには答えない…ということである。これを吉弘氏は
 限られた財源の範囲内でマジョリティへの配分を意識する維新の教育政策は、普遍主義的な発想でありながら、その陰でマイノリティから財を奪い、社会的分断を生み出しかねない。(p136)
と述べている。
 既存の「選別主義」の配分では、支出の対象が低所得者や社会的に困難を抱えている人、マイノリティに限られるのだが、それでは中間層以上には公共サービスの配分を受けられない…マジョリティにとっては受益の機会が乏しいわけだ…その既存の「選別主義」よる配分を「既得権益だ!」と攻撃して解体し、その予算を頭割りで「普遍主義」的に配分する…それが維新のやってきた、私立高校の授業料無償化などの教育財政なのである。吉弘氏はいう
 不要な支出を削減し、新たに必要な対象に普遍的に配るのであれば、資源配分上の問題は生じないだろう。問題は、既存の配分方法が、特定の人びとにとっては必要不可欠なサービスであった場合である。人びとが持つ財政や政府に対する不信感を梃子に登場した政党だからこそ、彼らは何としても毀損の配分が「無駄なもの」であると主張しなくてはならない。また、追加の税負担を市民に強いることは、極力避けなくてはならない。この性格は、維新の会の財政運営が極めて均衡財政主義的であったことからもうかがえる。
 以上の制約の中で生まれるのが、財政ポピュリズムである。既存の配分を取り上げ、頭割りに配り
直すことで人びとの支持を調達する。しかし、追加の税負担を要求することは、過去に行った既得権益批判の文脈から難しくなる。こうした中で、自らの支持者に配分するための資源を確保するには、マイノリティへの配慮を欠いてでも既存の配分を解体するしかなくなるのである。
 この条件のもとでは、仮に配分方法が普遍主義的であったとしても、改革後の公共サービスが社会の各分野において必要水準を十分満たしているとは言い難くなる。そもそも、所得制限を撤廃した教育費無償化政策には「マタイ効果」と呼ばれる格差の拡大を助長する効果も指摘されており、普遍主義的な配分が自動的に社会内の問題を解決するわけではない。近年、オランダでは普遍主義的配分がもたらす格差拡大効果が問題視され、選別主義と普遍主義の両方をバランスよく組み合わせることこそ重要であるとの指摘もなされている。それを考えると、大阪維新の会が行った政策の合意は、日本国内にとどまらず世界的に共通した公共政策上の隘路といえるかもしれない。(p147~148)

 「財政ポピュリズム」という言葉がでてきたが、要するに「選別主義」的な財政運営をしていればその恩恵を得られない中間層、マジョリティ(単なる新自由主義における「勝ち組」ではないことに注意!)の支持をとりつけるため、既存の配分を(暴力的にでも)解体して「普遍主義」的に頭割りで分配しましょう!ということだ。なるほど、これが「身を切る改革」「既得権益と闘う」維新を支持する多くの人びとの”根源的”な理由かな?ということがよく理解できる。
 しかし、財政ポピュリズムが「自己利益を最大化する合理的個人」からいくら支持されても、公共財・サービスというものは市場を通じて合理的に取引しても供給できないものである。そのため
財政は個人の合理性を超えて運営されなければならない…要するに「理想」「理念」が必要なのだ…吉弘氏は
 維新の会が行う財政ポピュリズムが合理的個人にとって魅力的に映るとしても、それは財政の本質的な否定にほかならない。財政を信用できないからといって、財政を解体して個人に繰り戻しても、社会全体は徐々に貧しくなっていくことになるだろう。(p149)
 と述べている。

 「財政ポピュリズム」の問題については、また別途ふれていきたい。

徳川幕府を倒した赤松小三郎?

 さて、「江戸の憲法構想」の中から興味深いお話を拾い出してみる…
江戸の憲法構想20240513
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
 銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
 次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)

 その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
 そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
 鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
 薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!

 とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
 薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。

倒幕の黒幕はアーネスト・サトウ

 5月6日の集会では「関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたもの」だと主張されているを書いた…そこで当日購入した「江戸の憲法構想 日本近代史の”イフ”」(作品社 2024年3月)」を読んでみると…
江戸の憲法構想20240513
 第三章が「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」となっている。
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 それによれば、「倒幕」と「王政復古」への世論形成に大きく貢献したのが、当時の在日本イギリス大使館の通訳官であったアーネスト・サトウの『英国策論』である。ところでイギリスの本国政府は、日本の内政に対して中立を維持せよと指示していた(実際、当時の列強は遠く離れた日本の内政に”介入”する余力はなかったそうである)。ところがサトウは英国公使館の一通訳官の立場ながら独断で、日本に対して「根本的な変革(radical change)を捲縮かつ真剣に提唱する」という論説記事を、横浜で発行されている英字紙「ジャパン・タイムズ」に書いたのである。ある意味、これは大変なことだ!ちなみに『英国策論』の骨子は、
 サトウの立論の大前提としてあるのは、徳川の大君とは、日本のなかで最大の領土を持つ諸侯の首席にすぎないのであって、日本全体を代表する存在ではないというものである。それゆえ、大君と結んだ通商条約は日本全体に及ばず、個々の大名領では効力を持たない。よって、新たに天皇の下で諸侯連合を組織し、「日本の連合諸大名(the Confederate Daimios of Japan)との条約をもって、現行の条約を補足するか、または、かの条約をもって現在の条約にかえるべき」というものである。条約問題を口実として、ミカドの下での諸侯連合政府への変革を促したのである。(p96)
 英国政府の公式な立場では、あくまでも条約は日本とむすんだものであるということに対し、サトウはそうではないと逸脱した論説を発表し、日本の体制変革を促しているのである。この「ジャパン・タイムズ」に掲載された論説は日本語に訳され「英国策論」として小冊子となり、印刷して「大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった」のだそうな。
 サトウの案は、あくまで徳川の権力をそいで、ミカドの下で諸侯会議の設立を促し、雄藩による連合政権を構築するというもの…江戸の憲法構想にみられるよう、国民に広く参政権をあたえようというものではない…が、これが「尊王攘夷」を掲げる人たちにはまったのであろう。また「英国策論」という邦題、書名によって、読んだ人がこれはイギリス政府の公式見解だと認識するようになったということもある。イギリスは自分たちの見方であるという認識も強まったであろう。 
 サトウは一貫して、薩長に武装蜂起を働きかけていた。1867年(慶応3年)6月、「薩土盟約」が結ばれて薩摩藩は土佐藩とともに”議会政治路線”に向かう(土佐藩、山内容堂の「大政奉還建白書」につながる路線)ことになる。サトウ翌7月の27,28日に二回も薩摩の西郷隆盛と会い、「薩土同盟」を反故にして武力討幕に踏み切るべきだと翁長がしている。「幕府はフランスと組んで薩長を滅ぼそうとしている」などのフェイク情報も並べ、西郷の危機感をあおったりもした。サトウは8月に土佐藩に赴き、山内容堂や後藤象二郎と会談、その後坂本龍馬と共に長崎に赴き、長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)と会い、武力決起を促している…いたるところで過激派「志士」たちと会い、挑発して武力討幕への決起を促して回ったのである。サトウの働きによるものかはともかく、西郷隆盛はサトウとの会談後半月後の8月4日に、長州藩と具体的な強兵計画の約定を結び、9月には薩摩藩は「薩土盟約」から離脱してしまう。

 では、なぜサトウはこれほどまで「武力決起」「武力討幕」にこだわったのか?日本で内戦が起これば、武器の売却でイギリス資本が大儲けできる、そして内戦が長引いて日本が弱体化すれば、ますますイギリスの言いなりになってくれる…ということを期待したからに他ならない。
 少し前、長州藩は「攘夷」を掲げて下関海峡で外国船を砲撃し、その報復で四か国の連合艦隊で攻め込まれ完全敗北する。この「下関戦争」の賠償金300万ドルは、本来長州藩が払うべきものだが、英国は幕府にそれを請求した。またこの戦争をきかっけに、日本の関税率を20%から5%に引き下げることに”成功”したのである。「不平等条約」の問題は、実はここから始まる…イキった連中が暴発してくれたおかげで、ここまで儲かるのだ!
 サトウは『英国策論』において、徳川大君との旧条約を破棄し、ミカドの下で諸侯連合政府と新しく条約を結びなおすと論じていた。しかるに、徳川政権との間で改税約書が結ばれるや、手のひらを返し、薩長が新政権を樹立して条約改正を要求しても、イギリスは決して交渉の席に着こうとしなかった。矛盾するようだが、イギリスの「新しい条約」とは、日本の関税自主権を剝奪すること(=関税率の引き下げと固定化)に主眼があったのだと考えれば納得できよう。徳川政権が設定した日本に有利な関税率の引き下げが達成されてしまえば、後は新政府が何を言おうが拒絶することがイギリスの国益となる。(p111)
 また下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。日英修好通商条約によれば、イギリス商人は軍用品を日本政府(徳川幕府)以外に販売してはならないはずであり、これを平然と破って秘密裏に薩摩や長州に武器を密売していたのが、グラバーである。
 長崎貿易を研究した重藤威夫によれば、「グラバーが武器の輸入について圧倒的な勢力をもっていた」。統計が残る慶応二年(一八六六)一~七月および翌三年(一八六七)に、長崎に輸入され販売された小銃は、あわせて三万三八七五挺であったが、その約四〇%にあたる一万二八二五挺はグラバー商会から購入していたという。坂本龍馬の亀山社中は、薩摩名義でグラバーから購入した小銃を、薩摩船の胡蝶丸で長州へと運んだ。坂本龍馬は、イギリスの軍事戦略の掌中で踊らされていた側面が強いのだ。戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)
 このように、内戦とその後の「維新政治」によるイギリス資本の利益のため、サトウは本国政府の方針を逸脱して独自に動いたと考えられる。

 関さんは先の講演集会で、明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得ると述べたのだが、それはこういったことなのだ。

中世天皇制に屈服したドラえもん

 暇な時間に図書館で「日本の歴史」第8巻「古代天皇制を考える」(2001年6月 講談社)を読んでいると、ちょっと面白い論考があった…
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
 第六章「中世王権の創出と院政」上島亨 の、最後のほうである。
 「中世王権」とは、律令制度で確立した古代天皇制が平安時代中期以降、変質してできあがった、日本の政治的支配の形である。古代天皇制は、中国の皇帝政にならった中央主権的な官僚機構であり、天皇はその頂点で「政治」をやっていた。従って、天皇個人に政治的な能力が必要であったのだが(子どもであるとかで能力がない場合、摂政が代行する)次第に官僚機構が政治をするようになり、天皇は祭祀の頂点に立つ、記号としての役割を果たせばよくなった。その天皇制の変質に合わせた政治形態が、藤原氏の摂関政治やその後の院政になっている。日本史ではいちおう、院政期意向を「中世」と呼び、中世における天皇制は「中世王権」と呼称されることが多い。
 平安時代中期、10世紀ごろに朝廷の官位が再編され、六位以下(貴族でない人)の官人の切り捨てが始まる。下級官人の仕組みが形骸化していき、「補任(ぶにん)」の対象となる。「補任」というのは国家財政を補完するため、朝廷の造営事業などを請け負う(これを「成功(じょうごう)」という)ことが行われるが、朝廷に何らかの経費を納入した一般人が見返りに官位・位階を得ることだ。早い話が「金で官位が買える」ようになる。12世紀には「成功」が多用され「補任」された人びとは貴族の一員となる。官位のうち「従五位下(じゅごいげ)」「衛門尉(えもんのじょう)」は、ステータスシンボルとして人気があったそうな。こうった人が地域社会を支えていたので、「従五位下」「衛門尉」の呼称は地域社会の身分秩序を支える規範になる。朝廷・天皇を頂点とする官僚機構はだんだん機能を縮小し、地域の人は天皇の顔や名前なんぞ全く知らないわけであったが、地域の有力者が天皇を頂点とする身分秩序に加わり、支配階層の末端に連なることで「中世王権」が社会的に認知されたということである。これを上島亨は、以下のように書いている。
一国平均役や一宮、荘園制を介して社会に浸透した中世王権、なかでも宗教的支配イデオロギーの核たる天皇の存在が、地方名士クラスには広範に受容されていたものと考えられる。」(p284)
 
こうした官位秩序が惣村の身分規範とされ、広く社会に浸透したので
「そして、その先には、近世の町人。百姓の多くが「太郎衛門」「次郎兵衛」などを名乗るという事実が位置し、遥か彼方には「ドラえもん」がいるのである。民衆一人ひとりの名前にまで官位秩序が根ざすことになる。しかも、衛門・兵衛でなければならないのは、十二世紀中葉以降、多数補任され社会的に浸透した官職だからである。
 もはや、衛門・兵衛が朝廷の官職であった事実も忘れられているだろう。「ドラえもん」とて、天皇を警護する官人につながる名であることは知らないはずだ。それは、大般若経転読の場で、日々の平安を祈り手を合わせる民衆の姿と同じである。中世王権を支えるイデオロギーの一環たることは、もはや忘れ去られている。いや、中世王権自体、既に王権の座にはないのである。
 中世王権そのものが役割を終えているにもかかわらず、それを支える宗教イデオロギーや規範秩序が生き続けているという現実。これは律令国家に比べると間接的で緩やかな民衆支配であったにもかかわらず、中世王権は強固な民衆的基盤を創り上げていたことを示している。道長を端緒とし、院権力のもと展開した支配秩序に、現代の我々も束縛されているといえば、いい過ぎであろうか。少なくとも、律令制に基づく法や制度が機能しなくなるなか、新たな支配秩序の構築に成功したことは間違いない。」(p285~286)

 「ドラえもん」にはのび太の先祖に「のびろべえ」(兵衛?)という人が出てくる…とほうもないホラを吹き、遠方からわざわざホラを聞きにきたと人もいると言い伝えられてきた人。実際はのび太たちがタイムマシンで現代に連れてこられたため、のびろべえさんが見た現代の話を、江戸時代の人がホラだと誰も信じなかったというお話…また「ドラえもん」以前に藤子・F/不二雄さんは「21エモン」…江戸時代から続く旅館の21代目、父親は20エモンである…という作品を1968年に「少年サンデー」に連載していた。
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]

いずれにしても「ドラえもん」は中世天皇制に「屈服?」した…というより、中世、近世とづながってきた「中世王権」の名残りのネーミングであるということだ。もちろん「ドラえもん」本人は「天皇を警護する官人につながる名であることは知らない」はずだ。なぜならドラえもんがうまれる時代には、天皇制はなくなっているからね。
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

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