先日紹介した「検証 大阪維新の会「財政ポピュリズム」の正体」(吉弘憲介 ちくま新書 2024年7月)の紹介のつづき…(前回はこちら)

![検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/6274/9784480076274_1_85.jpg?_ex=128x128)
検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
大阪で維新がとってきた「財政ポピュリズム」政策について、吉弘氏は
①既存の資源配分を既得権益として解体し②その資源をできるだけ広く配分し直す、その結果③それまで財政を通じた受益を感じづらかったマジョリティからの支持が強化される、というメカニズムが働いていることを浮かび上がらせた。(p183)
と書いている。広く配分し直す際に使われるのは「普遍主義」という考え方なのである。ところが「普遍主義」で税金を使うということは一見「良いこと」のように見える…税金を個人個人の「頭割り」に配分することは「公平」であるようにみえて、それを政治・政党への支持をつなぎとめるために使うことは非常に問題があるのだ。吉弘氏は述べる…
本来、財政によって供給される「公共財」は、利益を個人に分割できない(しない)からこそ、共同の税負担で賄うことが正当化される。さらに、私的財と違い、公共財をどれだけ社会に供給するかは、市場メカニズムによって決めることができない。ここで、共同の経済活動の支出水準や負担構造を決めるのは、個人の地益を超えた「価値」にもとづくのである。(p185)
私たちの世界には、歴史、民族、規範、環境の異なった多様な社会が存在する。その中で、多種多様な財政支出が構成されるためには、個人利益を超えた多様な価値観の共有が必要になる。仮に私的財であっても、社会が共有する価値観に照らして政府が供給すべき財は、財政によって賄われるべきである。これが「価値財」という考え方である。しかし、ある価値に即して共同負担で購入された財やサービスであっても、自己利益追求の視点からは「既得権益」と映ることもあるだろう。
財政ポピュリズムは、価値によって集合した経済行為を、個人の利益に繰り戻すことで支持を調達する手法である。それは、「集合的経済行為=財政」の根源的否定をはらんでいる。(p186)
たとえば維新の目玉政策である、高校教育の無償化…所得制限なしで私学であっても授業料が”無料”になる…というのは「普遍主義」に基づく税金の分配であり、多くの人が利益を受け、支持するであろう。そのかわり、公立高校の統廃合が進む、どんな地域に住んでいても、自転車で公立高校に通える(少なくともその選択肢がある)という”一部の”人の便益はなくなる(既得権益?)だけでなく、公的な高校教育を自治体が責任もって行うという「価値観」そのものを否定し、ぶっ壊すことになるわけだ。「学校にいくための金さえだせばエエ」というものではない。
また「価値観」が共有されない(財政)政策は、維新が打ち出したものであっても支持されない…これが「都構想」が否決され、万博やIR事業への機運醸成に必ずしも成功していないり理由である。これらは「共同の負担によって共同の利益を実現しようとする、まさに財政そのものといえるプロジェクトである。」(p186)からだ。
また「財政ポピュリズム」は、均衡財政主義とも相性がいい。本来「普遍主義」で税金を配分するには、政府に対する不信感が払拭され、増税や政府規模の膨張に対し人びとの同意を得ながらなされるべきものである。北欧の福祉国家が良い事例である。ところが大阪におけるそれは「増税に対する反発や既存の財政支出への批判を伴った」(p188)ものであり、それこそが「財政ポピュリズム」なのだ。ということは、自民党の「裏金政治」が是正されずに続く限り、いつまでも維新やその他勢力の「財政ポピュリズム」も続く…それは公共という価値観の破壊につながるのだ!
「財政ポピュリズム」を支持する人は、けっこういるだろう…それが大阪における「維新支持」にもつながっている。
これまで、税金や社会保険を負担させられながら、そのリターンを享受できたという実感が乏しい人びとは、たとえ誰かが困ろうと、事故里ケ飢餓確保される政治に魅力を感じるかもしれない。
ここで、注意深く考えなかればならないのは、それでも財政は、個人の合理性を超えた集団の意思決定によって駆動し、さらにそれは回りまわって全体の利益につながってきたという事実である。(p190~191)
大事なのは、先の公的教育のような事例では、個人が自分に利益があること以外を行わないと合理的に振るまえば、正の外部性が生まれないことである。例えば、自分の子どもに対する教育だけを望んで、公的な教育サービスに対する負担を渋れば、それは回りまわって全体で得られたはずの正の外部性を消し去ってしまう。そして、外部性が消え去った貧しい未来で暮らすことになるのは、他ならぬ自分の子どもたちである。この矛盾を乗り越えるためにこそ、個人の利益を乗り越えて、社会全体の価値を実現しようとする行為、つまり財政がある。(p191~192)
ということで「財政ポピュリズム」に対抗するため吉弘氏は、個人間で「共有される価値」を立て直すことが必要不可欠であり、「一見遠回りに思えるかもしれないが、共有される価値を再建することが、私たちが真に成長を実感できる社会を生み出すのである」(p195)と結んでいる。しかし、そのための「特効薬」や有効な政策・手段を提起しているわけではない…ただ、こうも言える…維新に対抗するため、維新に学んで「財政ポピュリズム」的な政策・手段を用いてはならない、当面、支持されなくとも「共有される価値」を掲げて、それを取り戻そう!とする政治を目指すべきである、ということだ。

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検証 大阪維新の会 「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802) [ 吉弘 憲介 ]
大阪で維新がとってきた「財政ポピュリズム」政策について、吉弘氏は
①既存の資源配分を既得権益として解体し②その資源をできるだけ広く配分し直す、その結果③それまで財政を通じた受益を感じづらかったマジョリティからの支持が強化される、というメカニズムが働いていることを浮かび上がらせた。(p183)
と書いている。広く配分し直す際に使われるのは「普遍主義」という考え方なのである。ところが「普遍主義」で税金を使うということは一見「良いこと」のように見える…税金を個人個人の「頭割り」に配分することは「公平」であるようにみえて、それを政治・政党への支持をつなぎとめるために使うことは非常に問題があるのだ。吉弘氏は述べる…
本来、財政によって供給される「公共財」は、利益を個人に分割できない(しない)からこそ、共同の税負担で賄うことが正当化される。さらに、私的財と違い、公共財をどれだけ社会に供給するかは、市場メカニズムによって決めることができない。ここで、共同の経済活動の支出水準や負担構造を決めるのは、個人の地益を超えた「価値」にもとづくのである。(p185)
私たちの世界には、歴史、民族、規範、環境の異なった多様な社会が存在する。その中で、多種多様な財政支出が構成されるためには、個人利益を超えた多様な価値観の共有が必要になる。仮に私的財であっても、社会が共有する価値観に照らして政府が供給すべき財は、財政によって賄われるべきである。これが「価値財」という考え方である。しかし、ある価値に即して共同負担で購入された財やサービスであっても、自己利益追求の視点からは「既得権益」と映ることもあるだろう。
財政ポピュリズムは、価値によって集合した経済行為を、個人の利益に繰り戻すことで支持を調達する手法である。それは、「集合的経済行為=財政」の根源的否定をはらんでいる。(p186)
たとえば維新の目玉政策である、高校教育の無償化…所得制限なしで私学であっても授業料が”無料”になる…というのは「普遍主義」に基づく税金の分配であり、多くの人が利益を受け、支持するであろう。そのかわり、公立高校の統廃合が進む、どんな地域に住んでいても、自転車で公立高校に通える(少なくともその選択肢がある)という”一部の”人の便益はなくなる(既得権益?)だけでなく、公的な高校教育を自治体が責任もって行うという「価値観」そのものを否定し、ぶっ壊すことになるわけだ。「学校にいくための金さえだせばエエ」というものではない。
また「価値観」が共有されない(財政)政策は、維新が打ち出したものであっても支持されない…これが「都構想」が否決され、万博やIR事業への機運醸成に必ずしも成功していないり理由である。これらは「共同の負担によって共同の利益を実現しようとする、まさに財政そのものといえるプロジェクトである。」(p186)からだ。
また「財政ポピュリズム」は、均衡財政主義とも相性がいい。本来「普遍主義」で税金を配分するには、政府に対する不信感が払拭され、増税や政府規模の膨張に対し人びとの同意を得ながらなされるべきものである。北欧の福祉国家が良い事例である。ところが大阪におけるそれは「増税に対する反発や既存の財政支出への批判を伴った」(p188)ものであり、それこそが「財政ポピュリズム」なのだ。ということは、自民党の「裏金政治」が是正されずに続く限り、いつまでも維新やその他勢力の「財政ポピュリズム」も続く…それは公共という価値観の破壊につながるのだ!
「財政ポピュリズム」を支持する人は、けっこういるだろう…それが大阪における「維新支持」にもつながっている。
これまで、税金や社会保険を負担させられながら、そのリターンを享受できたという実感が乏しい人びとは、たとえ誰かが困ろうと、事故里ケ飢餓確保される政治に魅力を感じるかもしれない。
ここで、注意深く考えなかればならないのは、それでも財政は、個人の合理性を超えた集団の意思決定によって駆動し、さらにそれは回りまわって全体の利益につながってきたという事実である。(p190~191)
大事なのは、先の公的教育のような事例では、個人が自分に利益があること以外を行わないと合理的に振るまえば、正の外部性が生まれないことである。例えば、自分の子どもに対する教育だけを望んで、公的な教育サービスに対する負担を渋れば、それは回りまわって全体で得られたはずの正の外部性を消し去ってしまう。そして、外部性が消え去った貧しい未来で暮らすことになるのは、他ならぬ自分の子どもたちである。この矛盾を乗り越えるためにこそ、個人の利益を乗り越えて、社会全体の価値を実現しようとする行為、つまり財政がある。(p191~192)
ということで「財政ポピュリズム」に対抗するため吉弘氏は、個人間で「共有される価値」を立て直すことが必要不可欠であり、「一見遠回りに思えるかもしれないが、共有される価値を再建することが、私たちが真に成長を実感できる社会を生み出すのである」(p195)と結んでいる。しかし、そのための「特効薬」や有効な政策・手段を提起しているわけではない…ただ、こうも言える…維新に対抗するため、維新に学んで「財政ポピュリズム」的な政策・手段を用いてはならない、当面、支持されなくとも「共有される価値」を掲げて、それを取り戻そう!とする政治を目指すべきである、ということだ。