8月3日、エルおおさかで行われた緊迫した辺野古!現地報告集会に参加してきた。
暑い中、14時に集会開始。司会あいさつの後、全港湾建設支部で、辺野古現地での闘いをささえている宮崎史朗さんの講演がはじまる。


まずはじめに、先日投開票が行われた参議院選挙の報告。「オール沖縄」が推す高良さちかさんの当選を報じる新聞記事などが報告された。写っているスライドは、6月初旬の辺野古大行動でのもの。高良さんも参加されている。
続いて、辺野古新基地建設現場の空撮写真や、平面図を示して工事の進行状況の説明があった。そして、ゲート前で工事用車両を止めている写真が紹介される。
車両が出入りするのが、9時、12時、15時の3回、その都度、機動隊によって排除される。ただ、6月23日は総理大臣などの要人警護で機動隊がだせず、工事のほうが止めってしまう。機動隊に守られていないと、工事ができないのだ。
工事用ゲート前では、どのような車両が入ってくるのかチェックも行われている。20tトレーラだ農で、海砂や赤土が運ばれる。栗石や、分解されたクローラクレーンも運ばれてくるそうだ。
そうした資材や機材を使って、工事が進められている。運び込まれた土砂は埋立用土として、辺野古側のすでに埋立てが完成したところに”仮置き”している。約20万㎥あるそうだ。

次に、美謝川の切替工事を含めた、敷地内の造成工事について図面を使って説明。敷地内に米軍のゲートがあって、そこで検問があるため、工事用車両が長々と滞留する…敷地内(阻止行動をやっている工事用ゲートの内側)に仮設道路をつくって、そこが車両の待機場所となっているそうだ。なんか米軍が工事の”妨害”をしているようにも見受けられる。
第二ゲート近く、国道をくぐるボックスの新設工事も、ずいぶんと長い期間をかけてやっているようだ。(あとで質問すると、あと1~2年はかかりそうだとのこと)
続いて、工事用ゲート付近の、共同使用区域内の整地状況や、美謝川河口付近の様子が写真で示される。
海の様子について、大浦湾を望む地点から、埋立用土の瀬取り状況や、海上ヤード現場、クレーン船やSCP(サンドコンパクションパイル)船の様子が分かる写真が示された。SCP船は6隻もいたが、現在「台風からの避難」ということで、中城湾に2隻、奄美大島に4隻と出払っており、SCP船は1隻もないそうである。
また土砂搬出現場、安和、塩川、そして宮城嶋の闘いが紹介された。宮城嶋ではこれまで土取場から40分かけて港から搬出していたが、県の抗議を無視して運搬時間が10分程度の民間の桟橋から搬出するようになった。
最後に辺野古新基地建設に係る問題点をまとめられた…大浦湾の複雑な海底構造と、90mに至る軟弱地盤の存在により、再度の設計変更は不可避である。防衛省は県の指導・指摘を無視するしかない。
また、砂杭のための海砂の大量採取問題がある。瀬戸内等では規制が進んでいるので、沖縄の安部沖、今帰仁沖、慶良間諸島周辺などで海砂の大量採取を行わなければならない。ところが現在においても、県内工事で使用する分についても影響が出ている。これ以上の海砂採取は、環境に甚大な影響を与えるが、県による積極的な関与が必要になる。
また現在行われている住民訴訟は、入り口論に終始し、公有水面法に基づく実質審理を行っていない。知事の設計承認撤回に対する国土交通大臣の取り消し採決の取消訴訟は、高裁で4人の原告適格が認められ、最高裁へ上告中である。知事の設計変更不承認取消判決の取消訴訟については、8月7日に原告適格判断予定だ。取消の理由は、国の行為が公有水面埋立法に違反し違法だからだ。埋立が本当に必要か、適正かつ合理的か、環境保全、災害対策に配慮されているか…が審理されなければならない。基地が完成して米軍に引き渡されると「第三者行為論」で使用差し止めが否認されるので、完成前に審理すべきであり、そうでないと司法が関与できないのである。
最後に、那覇・県民広場から辺野古に行く「辺野古貸切バス」の運行案内をして、講演は終了した。
20分程質疑応答、その中で来年の名護市長選挙について、翁長久美子さんが「オール沖縄」から出馬されるのは確定かどうか?というものがあり、ほぼ確定だろうとのこと(8月5日 正式に出馬表明)。

続いて「辺野古ぶるーHYOGO」から、海上行動に参加している小野純一さんから「海上行動の今」という題で講演。海上行動もさることながら、名護市内でであった普通の人が、辺野古新基地建設問題について「あきらめている」ような会話をしたことを話され、彼らをそういった状況に追い詰めているのは誰か?という鋭い問いかけをなされた。
「沖縄のジュゴンは生きている」と題して、SDCCから短いアピール…そして「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」から、毎週土曜日の街頭宣伝と、月に1回、第四土曜日の「朗読デモ」について話をされた。
集会参加者は、おおむね50人程度であった。
暑い中、14時に集会開始。司会あいさつの後、全港湾建設支部で、辺野古現地での闘いをささえている宮崎史朗さんの講演がはじまる。


まずはじめに、先日投開票が行われた参議院選挙の報告。「オール沖縄」が推す高良さちかさんの当選を報じる新聞記事などが報告された。写っているスライドは、6月初旬の辺野古大行動でのもの。高良さんも参加されている。
続いて、辺野古新基地建設現場の空撮写真や、平面図を示して工事の進行状況の説明があった。そして、ゲート前で工事用車両を止めている写真が紹介される。
車両が出入りするのが、9時、12時、15時の3回、その都度、機動隊によって排除される。ただ、6月23日は総理大臣などの要人警護で機動隊がだせず、工事のほうが止めってしまう。機動隊に守られていないと、工事ができないのだ。
工事用ゲート前では、どのような車両が入ってくるのかチェックも行われている。20tトレーラだ農で、海砂や赤土が運ばれる。栗石や、分解されたクローラクレーンも運ばれてくるそうだ。
そうした資材や機材を使って、工事が進められている。運び込まれた土砂は埋立用土として、辺野古側のすでに埋立てが完成したところに”仮置き”している。約20万㎥あるそうだ。

次に、美謝川の切替工事を含めた、敷地内の造成工事について図面を使って説明。敷地内に米軍のゲートがあって、そこで検問があるため、工事用車両が長々と滞留する…敷地内(阻止行動をやっている工事用ゲートの内側)に仮設道路をつくって、そこが車両の待機場所となっているそうだ。なんか米軍が工事の”妨害”をしているようにも見受けられる。
第二ゲート近く、国道をくぐるボックスの新設工事も、ずいぶんと長い期間をかけてやっているようだ。(あとで質問すると、あと1~2年はかかりそうだとのこと)
続いて、工事用ゲート付近の、共同使用区域内の整地状況や、美謝川河口付近の様子が写真で示される。
海の様子について、大浦湾を望む地点から、埋立用土の瀬取り状況や、海上ヤード現場、クレーン船やSCP(サンドコンパクションパイル)船の様子が分かる写真が示された。SCP船は6隻もいたが、現在「台風からの避難」ということで、中城湾に2隻、奄美大島に4隻と出払っており、SCP船は1隻もないそうである。
また土砂搬出現場、安和、塩川、そして宮城嶋の闘いが紹介された。宮城嶋ではこれまで土取場から40分かけて港から搬出していたが、県の抗議を無視して運搬時間が10分程度の民間の桟橋から搬出するようになった。
最後に辺野古新基地建設に係る問題点をまとめられた…大浦湾の複雑な海底構造と、90mに至る軟弱地盤の存在により、再度の設計変更は不可避である。防衛省は県の指導・指摘を無視するしかない。
また、砂杭のための海砂の大量採取問題がある。瀬戸内等では規制が進んでいるので、沖縄の安部沖、今帰仁沖、慶良間諸島周辺などで海砂の大量採取を行わなければならない。ところが現在においても、県内工事で使用する分についても影響が出ている。これ以上の海砂採取は、環境に甚大な影響を与えるが、県による積極的な関与が必要になる。
また現在行われている住民訴訟は、入り口論に終始し、公有水面法に基づく実質審理を行っていない。知事の設計承認撤回に対する国土交通大臣の取り消し採決の取消訴訟は、高裁で4人の原告適格が認められ、最高裁へ上告中である。知事の設計変更不承認取消判決の取消訴訟については、8月7日に原告適格判断予定だ。取消の理由は、国の行為が公有水面埋立法に違反し違法だからだ。埋立が本当に必要か、適正かつ合理的か、環境保全、災害対策に配慮されているか…が審理されなければならない。基地が完成して米軍に引き渡されると「第三者行為論」で使用差し止めが否認されるので、完成前に審理すべきであり、そうでないと司法が関与できないのである。
最後に、那覇・県民広場から辺野古に行く「辺野古貸切バス」の運行案内をして、講演は終了した。
20分程質疑応答、その中で来年の名護市長選挙について、翁長久美子さんが「オール沖縄」から出馬されるのは確定かどうか?というものがあり、ほぼ確定だろうとのこと(8月5日 正式に出馬表明)。

続いて「辺野古ぶるーHYOGO」から、海上行動に参加している小野純一さんから「海上行動の今」という題で講演。海上行動もさることながら、名護市内でであった普通の人が、辺野古新基地建設問題について「あきらめている」ような会話をしたことを話され、彼らをそういった状況に追い詰めているのは誰か?という鋭い問いかけをなされた。
「沖縄のジュゴンは生きている」と題して、SDCCから短いアピール…そして「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」から、毎週土曜日の街頭宣伝と、月に1回、第四土曜日の「朗読デモ」について話をされた。
集会参加者は、おおむね50人程度であった。




















