たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

なつかしの鉄道ネタ

金も出たぞ!さつま町

 22日に行われる戦争止めよう!沖縄・西日本ネットワーク結成集会の翌日のフィールドワークでは、さつま町中岳(弾薬庫建設予定地)、その近くの中津川交流館へ行くのだが、中津川交流館の場所を調べているうち、少し近くに鉄道が通っていたことが明らかになった。
 さつま町には現在、鉄道は通っていないのだが、1987年1月まで国鉄宮之城線が走っていた。ちなみに現さつま町は2005年に宮之城町、鶴田町、薩摩町が合併してできた自治体である。その3村を貫いて、鹿児島本線の川内~薩摩大口66.1㎞を結んでいた国鉄のローカル線があったのだ。
 晶文社、全国鉄道地図帳の188ページを開くと、こんな感じで記載されている。
20250322 さつま町地図20250214
 赤い星印が、中津川である。
 宮之城線の説明には
 大正時代より工事が進められ1937年(昭和12年)に全通。永野金山と精錬施設で活気があった永野地区への駅設置のため、薩摩永野駅は行き止まり式の構造を採用している。一時は佐渡を凌ぐ産出量を誇った金山が1953年に閉山になると、赤字ローカル線に転落、末期は1・2両の気動車が僅かな貨車を牽く程度の輸送量であった。
 とある。黄色のアンダーラインが、永野鉄道記念館という、旧駅舎を利用した記念館となっている。ホーム跡や線路も残っているようだ。
 この外、さつま町内には、旧宮之城町の中に宮之城鉄道記念館(旧宮之城駅跡)や、旧薩摩鶴田駅跡の鶴田鉄道記念館がある。

 さて永野金山とその精錬施設という言葉もあるよう、さつま町には金山もあったのである。
永野金山産業遺跡群
 なんでも1640年に宮之城領主・島津久通が発見したもの…幕府の許しを得て薩摩藩が採掘を開始する。江戸時代中期には佐渡の金山よりも金の産出量が多かったそうだ。おお、これも薩摩藩が幕末に幕府を倒す財源となったのであろう。明治以降は近代化が進められ、水銀を用いたアマルガム法、水力や蒸気機関の導入が行われた。1904年から1912年まで第七代鉱業館長を務めた五代龍作(五代友厚の娘婿)は更なる近代化を推し進め、シアン化カリウムを用いる青化法の導入や電化、新たな精錬所を永野に作るなどしたとのことである。太平洋戦争中に金鉱山整備令によって「不要不急産業」に指定され,休山。1950年に再開するも、新たな金鉱脈が見つからず53年には休山状態となった。正式な閉山は1965年である。
 まぁ、永野地区の奥山には、金山跡の坑道がボコボコ開いているわけだが、ここをミサイル弾薬庫に再利用するわけではない。弾薬庫建設予定地は国道504号(北薩横断道路)を隔てた中岳のふもとあたりらしい。

 なお国鉄宮之城線の終点、薩摩大口駅も現在はない…これも国鉄(JR)山野線という、1988年2月に廃止された路線の途中駅である。山野線は鹿児島本線水俣から、肥薩線栗野を結ぶ55.7㎞の路線で、全国鉄道地図帳では、
 金などを産出する鉱山への人員資材輸送のため1937年(昭和12年)に全通、軽便鉄道がルーツで規格の低い「簡易線」であったが、1970年までは気動車1両の急行「からくに」も走っていた。途中の大川ループ線は標高差30m、直径320mと国鉄最小サイズ。
 とある。金などを産出する鉱山は、永野金山の他沿線に何カ所かあったのかもしれない。
 
 以上、さつま町の廃線と金山のおはなしである。

女子鉄道員と日本近代

 鉄道むすめことはじめ…的な本ではアリマセン(^^)(^^)(^^)///
 日本において、鉄道という職業の中に、どのように女性が進出してきたのか?ということを解き明かすお話です。
女性鉄道員と日本近代20240304
女子鉄道員と日本近代(若林宣 青弓社 2023年12月)
女子鉄道員と日本近代 [ 若林 宣 ]
女子鉄道員と日本近代 [ 若林 宣 ]
 一般的に鉄道の仕事は男性のものとされおり、例外的に先の大戦で男性労働者が大量に軍隊に召集された”穴埋め”として女性が鉄道職に”動員”されていた…と認識している人も多いだろう。鉄道の仕事は男性のものという認識は、「男女雇用機会均等法」以降も続き、それゆえ女性の進出も遅れ「鉄道むすめ」なるコンテンツがそれなりに受ける土壌ともなった。
 だが日本の鉄道において、職場に全く女性がいなかったのかというとそうではない。日本国有鉄道の正史によれば、1900年6月12日に採用した女性事務職がその嚆矢であるとされるし、それ以前にも鉄道で働く女性は存在した。本書はそんな女性労働者について書かれたものだ。
 はじめの「鉄道むすめ」は、踏切番であった…1897年2月18日、日本で鉄道が開業してから6年4ヶ月ほど経った頃だが、新聞に「旗振女」が列車にひかれて亡くなったという事故の記事が出た。「旗振り女」というのは踏切番…列車が通る際に踏切の遮断機を閉める仕事をする女性である。当初は「守線手」という専門職種が踏切番も含めた線路の安全を守る仕事をしていたのっであるが、経費節減!のため、鉄道員の家族を線路のそばに住まわせ、踏切番をさせていた…そういった鉄道員の妻が列車にはねられたという事故である。
 本書ではそういった「踏切番」をはじめ、鉄道の職場で働いていた女性について昔の新聞記事をひろいあつめ、また旧国鉄の統計年報(ただし職種ごとの人数をまとめたものが掲載されるのが「明治四十一年度鉄道院統計図表(1913年)以降であり、鉄道創業期にはそんな資料はない)などから紐解いていく。1935年の統計では、事務員、電話掛、主札掛の他、踏切看守(踏切番)、客車清掃手、工場技巧の雇員、傭人に女性労働者がいたことがわかる。また女性労働者の賃金は、男性に比べて極めて低かった。
 本書では出札掛や車掌に女性労働者が登用、進出していく様子も記載されている。こうした「お客さん」相手の”感情労働”については、当時の「女性のほうが穏やかで客と衝突しないだろうという見方」(p65)が期待されていたそうだ。そういったジェンダーに対する筆者のまなざしも興味深い。
 また出札掛や車掌職に女性が進出してくることで、男性労働者が賃金の低い女性労働者にとって代わられる!という軋轢、危機感についても書かれている。1933年2月2日、武蔵野鉄道(現・西部池袋線)の労働者は始発からストライキに入ったが、労働者側の要求の中に「女性を従業員として採用しないこと」というのがあった。「つまり男性労働者は、安価な労働者への置き換えを警戒したのである。ここで、低賃金で働く女性の賃金引上げとか、あるいは男女同一賃金を要求しないという点で彼らの限界があった。」(p114)と筆者は当然のことを述べている。
 もちろん事務員や出札掛、車掌などへの女性労働者の進出は、単に安い労働力を求めてというだけではなく、女性への教育の普及や産業の成熟、また欧米における第一次政界大戦、総力戦で男性労働者が動員”され、その”穴埋め”的に女性労働者が進出してきたという動きも含めた、様々な要因による、様々な分野への女性進出の一環である。当然女性も主体的に鉄道の職を選んでいるのである。
 そういった経緯もあったが、やはり鉄道職場において女性労働者の進出…というか動員が進んだのは、第二次世界大戦期である。本書では「第6章 アジア太平洋戦争期の国鉄と女性職員」「第7章 戦時下の女性乗務員の採用」と、当時の女性労働者の増加や、どのように彼女たちが鉄道の仕事に従事したのかということが書かれている。新潟鉄道管理局では「模範女子管理駅」が指定され、駅長や助役、指導的地位のある者を除いた駅員をすべて女性にしようとしたことも紹介されている。当時の鉄道の職場は劣悪であり、女性も男性と同様に厳しい労働に従事した。また女性車掌の登用も進められたが、国鉄は私鉄よりも女性登用がスローモーだったそうだ。運転士・機関士について私鉄では女性運転士の採用がなされたものの、国鉄ではついに登場しなかった。
 終戦後、男性労働者が復員してくると、女性労働者の減員が開始される。「第8章 敗戦から現代へ」には「一九八五年八月。「毎日新聞」は東京車掌区に所属していた女性職員のその後を追跡調査した。二期生四十四人のうち、消息がつかめたのは二十人。さらにそのうち、電話交換手や労務課など配置転換によってしばらく国鉄や運輸省(当時の国鉄は運輸省の現業機関だった)に残れたのは五人だった。敗戦後の人員千里の大規模なさまが、ここからもうかがえる。」(p191~192)
「戦時下に表向きだけ動いたかに見えたジェンダーの壁は、こうして押し戻されたのである」(p192)
と記されている。とはいえ、女性労働者がまったくいなくなったわけではなく、国鉄において一部の職種に限って女性の新規採用が続けられている。
 1985年の男女雇用機会均等法、そして99年に女性の深夜労働禁止が撤廃されたことから、鉄道の運転士や車掌に再び女性が採用されるようになった。しかし、問題がすべて解決したわけではなく、差別待遇撤廃に名を借りた労働強化や、女性の鉄道院を男性の視点から愛玩物のように見なす姿勢、「女性の感性」や「女性らしい」ふるまいだとされるジェンダーバイアスを正していくこと…「企業の努力が必要なことはいうまでもないが、もし社会が働きにくさを増幅させているのだとしたら、そのような社会もまた、変わらなければならないだろう。女性鉄道員をめぐる問題は過去だけでなく今日の問題でもあり、また未来に向けて考え直していかなければならない問題なのである。」(p201)と結ばれている。

福知山散策…麒麟が来るのが遅すぎた⁉

 福知山城に行って来た続き…
 城跡の隣、堀川を太鼓橋で渡ったところも、公園として整備されています。
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 そこからのお城の眺め…桜に包まれてますね。

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 太鼓橋(昇龍橋)から…左は福知山佐藤大浦記念美術館。

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 橋からの眺め…

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 公園から道を隔てて、「ゆらのガーデン」というものが整備されています。お城見学の駐車場にもなっています。

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 「ゆらのガーデン」のコンセプトが「お城を眺めながら食事や休憩、お買い物が楽しめます」とのこと…

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 ゆたりとした芝生の中に、店が点在しているのですね。お城もよく見えます。

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 お城の下にある、丹波生活衣館に入ってみました。庶民が生活で着ていた衣服を展示してあります。日常の中、木綿の重要性や「特産物」でない織物…主に自家消費のために作られていた…があることが分かります。

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 で、城の北側に行って「城下町」の様子を見ることに…ここは「藩校」の跡だそうな。

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 しかしアーケード商店街は、完全にシャッター街と化していました。たしかに福知山は、山陰本線と福知山線のジャンクションであり、かつ舞鶴線や京都丹後鉄道も出ている「交通の要衝」とはいえ、観光でふらっと降りるようなところではありませんでした。
 飯を食えるお店も、駅前にかたまっており、市街地には駅より高い建物がほとんどありません(そのため、空が広くて気持ちはいいです)駅前にはサンルートぐらいしか、チェーンのビジネスホテルもない。今でこそNHK大河ドラマのおかげで「光秀ブーム」が置き、お城のあたりは賑わっていますが、麒麟が来るのが遅すぎた!感じですね。
 福知山は京都府で2番目に市政を敷いたのですが、広い市域に人口が7万7千人ぐらいしかいないので、車で便利なように出来ているみたいです。

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 駅前に戻り、「福知山踊り」の像。

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 駅の南側には、C11蒸気機関車と転車台が飾られています。

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 説明書きです。

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 この東屋は、地平にあったころの福知山駅のホームの屋根を支えていたもの。

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 その説明書き…アメリカ、カーネギー社及びイリノイ社に特注したレールを再利用したものだそうな。

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 「鉄道の要衝」として、駅南側には車庫やヤードが広がっていたので、それを記念してこういったものを残し、展示して公園化しているわけですね。

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 ということで、もう一度転車台とC11を撮っておきます。

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 それでは山陰本線で京都方面に帰りましょう…写真は京都丹後鉄道の気動車でありますっ!
 ではでは。

片上鉄道の廃線跡(後篇)

 さて同和鉱業片上鉄道の廃線を訪ねる旅、西片上を離れて赤穂線で一旦、東岡山に出て、山陽本線を和気まで戻る。
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 駅を出て、隣の地下道で反対側に出ると、片上鉄道の和気駅の跡に出るのだ!

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 こんな感じで、だだっ広いのだ。

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 「片上ロマン街道」の案内が出てるぞ!

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 片上方面に戻る…いかにも廃線跡という感じの道路が続いている。

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 歩道の一部みたい…まだまだ続くぞ!

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 戻って、柳原方面、山陽本線岡山方面を望む。

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 こんな感じで、カーブして…

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 一般の道路を越えて、築堤の上に上っていく。ここから片上鉄道は山陽本線をオーバークロスして、柳原に向かうのだ。

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 ず~っと歩いて行くのは疲れたので、早めに山陽本線を渡って吉井川の支流、金剛川のほとりに出る。向うに見える橋桁は、片上鉄道のもの…もちろん、サイクリングロードとして通れるのだ。
和気駅とキハ300_0001(1)
 これは91年6月に片上鉄道和気駅から、柳原方面を撮ったもの。

和気駅とキハ300_0001(2)
 キハ312がやってきて、高校生がたくさん乗って来た。

和気駅とキハ300_0001
 当時の和気駅と、片上鉄道客車ホハフ3001 
 おまけ…

吉ヶ原駅DD13_0001
 片上鉄道では、DD13が客車を引っ張る編成もあったぞ。

ホハフ3001_0001
 ホハフ3001 柳原ー片上のサボがある。

ホハフ3001_0001(1)
 客車の中は、こんな感じでした…もう少しエエ写真が撮れたらよかったのであるが…

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 では、和気をあとにしよう。片上鉄道廃線跡は、これでおしまい!

片上鉄道の廃線跡(前篇)

 先日津山に行ったついでに、同和鉱業片上鉄道の廃線跡を見てきた。
 同和鉱業片上鉄道とは、岡山県の柳原ー片上間33.8㎞を走っていた非電化のローカル鉄道で、91年7月に廃止されている。柳原鉱山から産出する硫化鉄鉱を片上港まで運搬するため1931年に全通した鉱山鉄道であった。
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 片上鉄道の片上駅は、JR赤穂線の西片上駅が最寄り駅である。ちょうど高校生の下校時間と重なった。
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 ピンクの花が咲き誇ってますな。

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 駅は平行する国道2号線と同じ高さにあって、階段を降りると「サイクリングロード」の案内が出てくる。これは片上ロマン街道サイクリングロードと言って、片上鉄道廃線跡を全面的に歩行者自転車専用道路として整備したものである。だが、この矢印にだまされて右に行くと、わけもわからず街の中に迷い込んでしまうのだ!
 ということで赤穂線に沿って戻ってみると、高架下にサイクリングロードがある。
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 手前の桁が赤穂線、奥が国道2号線だ。まんなかにず~っと、サイクリングロードが続いている。

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 西片上駅は国道側に出入口があるから、そっちで降りて上り方面に戻り、階段を降りるとここにたどり着く。

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 隣は高校の敷地である。サイクリングロードだが、地元の人が散歩したりしているよ。

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 では、片上駅のほうに戻ってみよう…

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 国道2号と赤穂線をくぐって、街の中へ戻る。

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 こんなふうに、いかにも鉄道がありましたというカーブが残っている。

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 標識があるよ!

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 さらに街の中へ…向うには旧の国道2号線とおぼしき県道が見える。

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 ここで県道に出た!で、廃線あとが良く分からなくなった。過去に乗車した時の記憶もほとんどないから、どの辺が駅か分からない‼
 先ほどのリンクを見れば、片上駅跡はちゃんと「ゼロ起点」としてエディオンやマックスバリューの間に整備されているのですね。
DSC05714
 要するに「サイクリングコース」としては、先ほどの「ゼロ起点」をスタートして国道250号線から県道に入ってすぐのこの地点からコースに入るということらしい。なお、写っている建物はリンクでは「リハビリ特化型デイサービス」と書いてあるが、つぶれたのであろうか?
 線路は、おそらく県道を横切ってすぐ曲がり、道路と平行に進んで「ゼロ起点」のとこらへんに向かっていたのであろう。駅跡地はエディオンやマックスバリューになっているということだ。
 で、91年6月、廃止前に乗りに行った時の写真、片上駅。
片上駅とキハ300_0001(1)
 鉱石を運搬する鉄道であったから、ホームが長くてけっこう立派なのだ。

片上駅とキハ300_0001(3)
 けっこう構内も、広かったのである。機関車はDD13だ。
片上駅とキハ300_0001
 湘南窓は、キハ312…現在も片上鉄道保存会さんが、柳原ふれい交通公園で動態保存をしているようだ。
 駅前の写真も撮っておけばよかった!のだが、今のようにデジカメで資料的に何枚も撮るわけにはいかない…なにぶんフィルムカメラで枚数が”制限”されていましたからね。
 後半に続く…
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

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