22日に行われる戦争止めよう!沖縄・西日本ネットワーク結成集会の翌日のフィールドワークでは、さつま町中岳(弾薬庫建設予定地)、その近くの中津川交流館へ行くのだが、中津川交流館の場所を調べているうち、少し近くに鉄道が通っていたことが明らかになった。
さつま町には現在、鉄道は通っていないのだが、1987年1月まで国鉄宮之城線が走っていた。ちなみに現さつま町は2005年に宮之城町、鶴田町、薩摩町が合併してできた自治体である。その3村を貫いて、鹿児島本線の川内~薩摩大口66.1㎞を結んでいた国鉄のローカル線があったのだ。
晶文社、全国鉄道地図帳の188ページを開くと、こんな感じで記載されている。

赤い星印が、中津川である。
宮之城線の説明には
大正時代より工事が進められ1937年(昭和12年)に全通。永野金山と精錬施設で活気があった永野地区への駅設置のため、薩摩永野駅は行き止まり式の構造を採用している。一時は佐渡を凌ぐ産出量を誇った金山が1953年に閉山になると、赤字ローカル線に転落、末期は1・2両の気動車が僅かな貨車を牽く程度の輸送量であった。
とある。黄色のアンダーラインが、永野鉄道記念館という、旧駅舎を利用した記念館となっている。ホーム跡や線路も残っているようだ。
この外、さつま町内には、旧宮之城町の中に宮之城鉄道記念館(旧宮之城駅跡)や、旧薩摩鶴田駅跡の鶴田鉄道記念館がある。
さて永野金山とその精錬施設という言葉もあるよう、さつま町には金山もあったのである。
永野金山産業遺跡群
なんでも1640年に宮之城領主・島津久通が発見したもの…幕府の許しを得て薩摩藩が採掘を開始する。江戸時代中期には佐渡の金山よりも金の産出量が多かったそうだ。おお、これも薩摩藩が幕末に幕府を倒す財源となったのであろう。明治以降は近代化が進められ、水銀を用いたアマルガム法、水力や蒸気機関の導入が行われた。1904年から1912年まで第七代鉱業館長を務めた五代龍作(五代友厚の娘婿)は更なる近代化を推し進め、シアン化カリウムを用いる青化法の導入や電化、新たな精錬所を永野に作るなどしたとのことである。太平洋戦争中に金鉱山整備令によって「不要不急産業」に指定され,休山。1950年に再開するも、新たな金鉱脈が見つからず53年には休山状態となった。正式な閉山は1965年である。
まぁ、永野地区の奥山には、金山跡の坑道がボコボコ開いているわけだが、ここをミサイル弾薬庫に再利用するわけではない。弾薬庫建設予定地は国道504号(北薩横断道路)を隔てた中岳のふもとあたりらしい。
なお国鉄宮之城線の終点、薩摩大口駅も現在はない…これも国鉄(JR)山野線という、1988年2月に廃止された路線の途中駅である。山野線は鹿児島本線水俣から、肥薩線栗野を結ぶ55.7㎞の路線で、全国鉄道地図帳では、
金などを産出する鉱山への人員資材輸送のため1937年(昭和12年)に全通、軽便鉄道がルーツで規格の低い「簡易線」であったが、1970年までは気動車1両の急行「からくに」も走っていた。途中の大川ループ線は標高差30m、直径320mと国鉄最小サイズ。
とある。金などを産出する鉱山は、永野金山の他沿線に何カ所かあったのかもしれない。
以上、さつま町の廃線と金山のおはなしである。
さつま町には現在、鉄道は通っていないのだが、1987年1月まで国鉄宮之城線が走っていた。ちなみに現さつま町は2005年に宮之城町、鶴田町、薩摩町が合併してできた自治体である。その3村を貫いて、鹿児島本線の川内~薩摩大口66.1㎞を結んでいた国鉄のローカル線があったのだ。
晶文社、全国鉄道地図帳の188ページを開くと、こんな感じで記載されている。

赤い星印が、中津川である。
宮之城線の説明には
大正時代より工事が進められ1937年(昭和12年)に全通。永野金山と精錬施設で活気があった永野地区への駅設置のため、薩摩永野駅は行き止まり式の構造を採用している。一時は佐渡を凌ぐ産出量を誇った金山が1953年に閉山になると、赤字ローカル線に転落、末期は1・2両の気動車が僅かな貨車を牽く程度の輸送量であった。
とある。黄色のアンダーラインが、永野鉄道記念館という、旧駅舎を利用した記念館となっている。ホーム跡や線路も残っているようだ。
この外、さつま町内には、旧宮之城町の中に宮之城鉄道記念館(旧宮之城駅跡)や、旧薩摩鶴田駅跡の鶴田鉄道記念館がある。
さて永野金山とその精錬施設という言葉もあるよう、さつま町には金山もあったのである。
永野金山産業遺跡群
なんでも1640年に宮之城領主・島津久通が発見したもの…幕府の許しを得て薩摩藩が採掘を開始する。江戸時代中期には佐渡の金山よりも金の産出量が多かったそうだ。おお、これも薩摩藩が幕末に幕府を倒す財源となったのであろう。明治以降は近代化が進められ、水銀を用いたアマルガム法、水力や蒸気機関の導入が行われた。1904年から1912年まで第七代鉱業館長を務めた五代龍作(五代友厚の娘婿)は更なる近代化を推し進め、シアン化カリウムを用いる青化法の導入や電化、新たな精錬所を永野に作るなどしたとのことである。太平洋戦争中に金鉱山整備令によって「不要不急産業」に指定され,休山。1950年に再開するも、新たな金鉱脈が見つからず53年には休山状態となった。正式な閉山は1965年である。
まぁ、永野地区の奥山には、金山跡の坑道がボコボコ開いているわけだが、ここをミサイル弾薬庫に再利用するわけではない。弾薬庫建設予定地は国道504号(北薩横断道路)を隔てた中岳のふもとあたりらしい。
なお国鉄宮之城線の終点、薩摩大口駅も現在はない…これも国鉄(JR)山野線という、1988年2月に廃止された路線の途中駅である。山野線は鹿児島本線水俣から、肥薩線栗野を結ぶ55.7㎞の路線で、全国鉄道地図帳では、
金などを産出する鉱山への人員資材輸送のため1937年(昭和12年)に全通、軽便鉄道がルーツで規格の低い「簡易線」であったが、1970年までは気動車1両の急行「からくに」も走っていた。途中の大川ループ線は標高差30m、直径320mと国鉄最小サイズ。
とある。金などを産出する鉱山は、永野金山の他沿線に何カ所かあったのかもしれない。
以上、さつま町の廃線と金山のおはなしである。