5月6日の集会では「関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたもの」だと主張されているを書いた…そこで当日購入した「江戸の憲法構想 日本近代史の”イフ”」(作品社 2024年3月)」を読んでみると…

第三章が「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」となっている。
![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
それによれば、「倒幕」と「王政復古」への世論形成に大きく貢献したのが、当時の在日本イギリス大使館の通訳官であったアーネスト・サトウの『英国策論』である。ところでイギリスの本国政府は、日本の内政に対して中立を維持せよと指示していた(実際、当時の列強は遠く離れた日本の内政に”介入”する余力はなかったそうである)。ところがサトウは英国公使館の一通訳官の立場ながら独断で、日本に対して「根本的な変革(radical change)を捲縮かつ真剣に提唱する」という論説記事を、横浜で発行されている英字紙「ジャパン・タイムズ」に書いたのである。ある意味、これは大変なことだ!ちなみに『英国策論』の骨子は、
サトウの立論の大前提としてあるのは、徳川の大君とは、日本のなかで最大の領土を持つ諸侯の首席にすぎないのであって、日本全体を代表する存在ではないというものである。それゆえ、大君と結んだ通商条約は日本全体に及ばず、個々の大名領では効力を持たない。よって、新たに天皇の下で諸侯連合を組織し、「日本の連合諸大名(the Confederate Daimios of Japan)との条約をもって、現行の条約を補足するか、または、かの条約をもって現在の条約にかえるべき」というものである。条約問題を口実として、ミカドの下での諸侯連合政府への変革を促したのである。(p96)
英国政府の公式な立場では、あくまでも条約は日本とむすんだものであるということに対し、サトウはそうではないと逸脱した論説を発表し、日本の体制変革を促しているのである。この「ジャパン・タイムズ」に掲載された論説は日本語に訳され「英国策論」として小冊子となり、印刷して「大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった」のだそうな。
サトウの案は、あくまで徳川の権力をそいで、ミカドの下で諸侯会議の設立を促し、雄藩による連合政権を構築するというもの…江戸の憲法構想にみられるよう、国民に広く参政権をあたえようというものではない…が、これが「尊王攘夷」を掲げる人たちにはまったのであろう。また「英国策論」という邦題、書名によって、読んだ人がこれはイギリス政府の公式見解だと認識するようになったということもある。イギリスは自分たちの見方であるという認識も強まったであろう。
サトウは一貫して、薩長に武装蜂起を働きかけていた。1867年(慶応3年)6月、「薩土盟約」が結ばれて薩摩藩は土佐藩とともに”議会政治路線”に向かう(土佐藩、山内容堂の「大政奉還建白書」につながる路線)ことになる。サトウ翌7月の27,28日に二回も薩摩の西郷隆盛と会い、「薩土同盟」を反故にして武力討幕に踏み切るべきだと翁長がしている。「幕府はフランスと組んで薩長を滅ぼそうとしている」などのフェイク情報も並べ、西郷の危機感をあおったりもした。サトウは8月に土佐藩に赴き、山内容堂や後藤象二郎と会談、その後坂本龍馬と共に長崎に赴き、長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)と会い、武力決起を促している…いたるところで過激派「志士」たちと会い、挑発して武力討幕への決起を促して回ったのである。サトウの働きによるものかはともかく、西郷隆盛はサトウとの会談後半月後の8月4日に、長州藩と具体的な強兵計画の約定を結び、9月には薩摩藩は「薩土盟約」から離脱してしまう。
では、なぜサトウはこれほどまで「武力決起」「武力討幕」にこだわったのか?日本で内戦が起これば、武器の売却でイギリス資本が大儲けできる、そして内戦が長引いて日本が弱体化すれば、ますますイギリスの言いなりになってくれる…ということを期待したからに他ならない。
少し前、長州藩は「攘夷」を掲げて下関海峡で外国船を砲撃し、その報復で四か国の連合艦隊で攻め込まれ完全敗北する。この「下関戦争」の賠償金300万ドルは、本来長州藩が払うべきものだが、英国は幕府にそれを請求した。またこの戦争をきかっけに、日本の関税率を20%から5%に引き下げることに”成功”したのである。「不平等条約」の問題は、実はここから始まる…イキった連中が暴発してくれたおかげで、ここまで儲かるのだ!
サトウは『英国策論』において、徳川大君との旧条約を破棄し、ミカドの下で諸侯連合政府と新しく条約を結びなおすと論じていた。しかるに、徳川政権との間で改税約書が結ばれるや、手のひらを返し、薩長が新政権を樹立して条約改正を要求しても、イギリスは決して交渉の席に着こうとしなかった。矛盾するようだが、イギリスの「新しい条約」とは、日本の関税自主権を剝奪すること(=関税率の引き下げと固定化)に主眼があったのだと考えれば納得できよう。徳川政権が設定した日本に有利な関税率の引き下げが達成されてしまえば、後は新政府が何を言おうが拒絶することがイギリスの国益となる。(p111)
また下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。日英修好通商条約によれば、イギリス商人は軍用品を日本政府(徳川幕府)以外に販売してはならないはずであり、これを平然と破って秘密裏に薩摩や長州に武器を密売していたのが、グラバーである。
長崎貿易を研究した重藤威夫によれば、「グラバーが武器の輸入について圧倒的な勢力をもっていた」。統計が残る慶応二年(一八六六)一~七月および翌三年(一八六七)に、長崎に輸入され販売された小銃は、あわせて三万三八七五挺であったが、その約四〇%にあたる一万二八二五挺はグラバー商会から購入していたという。坂本龍馬の亀山社中は、薩摩名義でグラバーから購入した小銃を、薩摩船の胡蝶丸で長州へと運んだ。坂本龍馬は、イギリスの軍事戦略の掌中で踊らされていた側面が強いのだ。戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)
このように、内戦とその後の「維新政治」によるイギリス資本の利益のため、サトウは本国政府の方針を逸脱して独自に動いたと考えられる。
関さんは先の講演集会で、明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得ると述べたのだが、それはこういったことなのだ。

第三章が「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」となっている。
![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
それによれば、「倒幕」と「王政復古」への世論形成に大きく貢献したのが、当時の在日本イギリス大使館の通訳官であったアーネスト・サトウの『英国策論』である。ところでイギリスの本国政府は、日本の内政に対して中立を維持せよと指示していた(実際、当時の列強は遠く離れた日本の内政に”介入”する余力はなかったそうである)。ところがサトウは英国公使館の一通訳官の立場ながら独断で、日本に対して「根本的な変革(radical change)を捲縮かつ真剣に提唱する」という論説記事を、横浜で発行されている英字紙「ジャパン・タイムズ」に書いたのである。ある意味、これは大変なことだ!ちなみに『英国策論』の骨子は、
サトウの立論の大前提としてあるのは、徳川の大君とは、日本のなかで最大の領土を持つ諸侯の首席にすぎないのであって、日本全体を代表する存在ではないというものである。それゆえ、大君と結んだ通商条約は日本全体に及ばず、個々の大名領では効力を持たない。よって、新たに天皇の下で諸侯連合を組織し、「日本の連合諸大名(the Confederate Daimios of Japan)との条約をもって、現行の条約を補足するか、または、かの条約をもって現在の条約にかえるべき」というものである。条約問題を口実として、ミカドの下での諸侯連合政府への変革を促したのである。(p96)
英国政府の公式な立場では、あくまでも条約は日本とむすんだものであるということに対し、サトウはそうではないと逸脱した論説を発表し、日本の体制変革を促しているのである。この「ジャパン・タイムズ」に掲載された論説は日本語に訳され「英国策論」として小冊子となり、印刷して「大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった」のだそうな。
サトウの案は、あくまで徳川の権力をそいで、ミカドの下で諸侯会議の設立を促し、雄藩による連合政権を構築するというもの…江戸の憲法構想にみられるよう、国民に広く参政権をあたえようというものではない…が、これが「尊王攘夷」を掲げる人たちにはまったのであろう。また「英国策論」という邦題、書名によって、読んだ人がこれはイギリス政府の公式見解だと認識するようになったということもある。イギリスは自分たちの見方であるという認識も強まったであろう。
サトウは一貫して、薩長に武装蜂起を働きかけていた。1867年(慶応3年)6月、「薩土盟約」が結ばれて薩摩藩は土佐藩とともに”議会政治路線”に向かう(土佐藩、山内容堂の「大政奉還建白書」につながる路線)ことになる。サトウ翌7月の27,28日に二回も薩摩の西郷隆盛と会い、「薩土同盟」を反故にして武力討幕に踏み切るべきだと翁長がしている。「幕府はフランスと組んで薩長を滅ぼそうとしている」などのフェイク情報も並べ、西郷の危機感をあおったりもした。サトウは8月に土佐藩に赴き、山内容堂や後藤象二郎と会談、その後坂本龍馬と共に長崎に赴き、長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)と会い、武力決起を促している…いたるところで過激派「志士」たちと会い、挑発して武力討幕への決起を促して回ったのである。サトウの働きによるものかはともかく、西郷隆盛はサトウとの会談後半月後の8月4日に、長州藩と具体的な強兵計画の約定を結び、9月には薩摩藩は「薩土盟約」から離脱してしまう。
では、なぜサトウはこれほどまで「武力決起」「武力討幕」にこだわったのか?日本で内戦が起これば、武器の売却でイギリス資本が大儲けできる、そして内戦が長引いて日本が弱体化すれば、ますますイギリスの言いなりになってくれる…ということを期待したからに他ならない。
少し前、長州藩は「攘夷」を掲げて下関海峡で外国船を砲撃し、その報復で四か国の連合艦隊で攻め込まれ完全敗北する。この「下関戦争」の賠償金300万ドルは、本来長州藩が払うべきものだが、英国は幕府にそれを請求した。またこの戦争をきかっけに、日本の関税率を20%から5%に引き下げることに”成功”したのである。「不平等条約」の問題は、実はここから始まる…イキった連中が暴発してくれたおかげで、ここまで儲かるのだ!
サトウは『英国策論』において、徳川大君との旧条約を破棄し、ミカドの下で諸侯連合政府と新しく条約を結びなおすと論じていた。しかるに、徳川政権との間で改税約書が結ばれるや、手のひらを返し、薩長が新政権を樹立して条約改正を要求しても、イギリスは決して交渉の席に着こうとしなかった。矛盾するようだが、イギリスの「新しい条約」とは、日本の関税自主権を剝奪すること(=関税率の引き下げと固定化)に主眼があったのだと考えれば納得できよう。徳川政権が設定した日本に有利な関税率の引き下げが達成されてしまえば、後は新政府が何を言おうが拒絶することがイギリスの国益となる。(p111)
また下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。日英修好通商条約によれば、イギリス商人は軍用品を日本政府(徳川幕府)以外に販売してはならないはずであり、これを平然と破って秘密裏に薩摩や長州に武器を密売していたのが、グラバーである。
長崎貿易を研究した重藤威夫によれば、「グラバーが武器の輸入について圧倒的な勢力をもっていた」。統計が残る慶応二年(一八六六)一~七月および翌三年(一八六七)に、長崎に輸入され販売された小銃は、あわせて三万三八七五挺であったが、その約四〇%にあたる一万二八二五挺はグラバー商会から購入していたという。坂本龍馬の亀山社中は、薩摩名義でグラバーから購入した小銃を、薩摩船の胡蝶丸で長州へと運んだ。坂本龍馬は、イギリスの軍事戦略の掌中で踊らされていた側面が強いのだ。戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)
このように、内戦とその後の「維新政治」によるイギリス資本の利益のため、サトウは本国政府の方針を逸脱して独自に動いたと考えられる。
関さんは先の講演集会で、明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得ると述べたのだが、それはこういったことなのだ。