前回の続き。
なぜ遠山や井上らの戦後マルクス主義史学は、こうした江戸末期の憲法構想を低く評価してきたのか?それは①人間の意識は階級に規定される…徳川や諸藩から出てきた議会制度論は、封建制の再構築に過ぎない②政治や文化などの上部構造は、経済的下部構造に規定される…最先進のイギリスでさえ普通選挙はまだだった時代に、より遅れた封建制の日本が普通選挙など唱えられるわけがない③人類の歴史は階級闘争の歴史である…反政府側(薩長)の暴力は階級闘争の発現、よって反政府側は進歩的で政権(徳川)は反動的 こういった「ドグマ」に支配されていたためだと、関さんは説明された。こういうのは「勝てば官軍」史観であるが、歴史は複雑系で、そういった単純な論理では必ずしも説明できるものではないのである。

それにしても、なぜ「江戸の憲法」がこんなに”進歩的”であったのか?それは儒教・朱子学の影響だそうな。当時の西洋の人権観念は、諸個人の自由を侵害しないよう、国家の行為に足かせをはめるもの。人権規定は国家にマイナス行為をさせない、個人に干渉しないというのが良い政府である(アメリカのリバタリアンが典型)しかし警察力や国防力は積極的に肯定する…これはネオリベ思想になる。
ところで朱子学ではどうとらえているのか?下川玲子「朱子学から考える権利の思想」(2017年ぺりかん社)を参照すると…

朱子学から考える権利の思想
そもそも朱子学では積極的に国家権力を想定していない…それはマルクス主義の理想(共産主義の高次段階)であると関さんはおっしゃったが、私はアナキズムに近いものではないかと考える。人間は本来的に善(性善説)であり、社会不安が取り除かれれば、諸個人の「天命の性」にそった善性は開花する。そのため、福祉の教育を充実させるための国家の機能は否定されない。国家にマイナス行為をさせないというだけでなく、プラス行為をさせる論理である。ちなみに儒教思想では、人間が犯罪を犯した場合でも、刑罰はすべて教育に収斂する、死刑廃止論に通じるものもあり、福祉や教育が充実していれば警察はいらないという考えにも連なる(そのわりに江戸時代には「打首獄門」などの残酷な刑罰もあったわけだが…)西洋のホッブズ的な社会契約論…「万人の万人に対する闘争」になるので、警察や軍隊などの暴力装置で社会秩序を維持、そのかわり国家は諸個人の内面の自由を侵害してはならない…から帰結する、警察や軍などの暴力が強調される「ネオリベ国家」に対する、東洋の儒教的「社会契約論」では、人間は本質的に善であるから、国家権力は不要、ただ人間が悪をなすのは貧困など善制の発現を阻害する要因があるからであり、国家は教育や社会福祉を通して、諸個人の天命の性を発揮できるようサポートするもの、「福祉国家」が対置される…ということだそうな。このへん、関さんは「異論や反発も多いでしょうが…」とおっしゃった。私も朱子学というのは「封建秩序」を維持するためのイデオロギーだと考えていたが、なるほどこうした見方もあるのかと感心した次第である。(儒教政策
下で福祉や教育が”充実しなかった”のは、生産力その他の要因もあるだろう)

その後、関さんは江戸を否定し西洋近代を否定した福沢諭吉と、江戸の儒教をベースに近代化を目指した渋沢栄一の違いにもふれられた。福沢は”貧民を甘やかすな”というネオリベ的近代化であり、渋沢は福祉と教育を重視する江戸的近代化を目指したということである。(一万円札の肖像が福沢から渋沢に代わるのも、なにかネオリベ政策が行き詰ってきた象徴でもある?)また、江戸時代に生まれ、儒教教育を受けた人たちが自由民権運動をやっていたという指摘もなされた。
江戸時代からの内発的近代のシナリオを取れば、天皇は儀礼や宗教のみつかさどる象徴天皇制や、大きな福祉・教育、小さな治安維持機構をもつ国家になったであろうところを、「神道原理主義」で明治維新を行った結果、侵略主義に染まり、大きな軍隊と小さな福祉しか持たない「大日本帝国」が出来上がった…それが敗戦によって”象徴天皇制の福祉国家をGHQにより”押し付けられた”ということになる。なお関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得るということだ。日本は、江戸の儒教文化を継承した合理的、普遍的、内発的な近代化の道を歩んでいたにもかかわらず、前近代的で家父長主義的な国家神道原理主義者たちが、覇権国の軍事支援を受けて政権を奪取し、西洋列強に従属しつつ、国内では抑圧的、対アジアでは侵略主義的な「国体」を77生み出したのが「明治維新」あんおである。
その後、休憩のあと質疑応答の時間。そしてまとめのあいさつでは、社民党の服部良一幹事長が発言され、現行憲法をないがしろにする、重要経済安保情報の保護及び活用に関する法案が審議されていることへの警鐘をならされた。
なぜ遠山や井上らの戦後マルクス主義史学は、こうした江戸末期の憲法構想を低く評価してきたのか?それは①人間の意識は階級に規定される…徳川や諸藩から出てきた議会制度論は、封建制の再構築に過ぎない②政治や文化などの上部構造は、経済的下部構造に規定される…最先進のイギリスでさえ普通選挙はまだだった時代に、より遅れた封建制の日本が普通選挙など唱えられるわけがない③人類の歴史は階級闘争の歴史である…反政府側(薩長)の暴力は階級闘争の発現、よって反政府側は進歩的で政権(徳川)は反動的 こういった「ドグマ」に支配されていたためだと、関さんは説明された。こういうのは「勝てば官軍」史観であるが、歴史は複雑系で、そういった単純な論理では必ずしも説明できるものではないのである。

それにしても、なぜ「江戸の憲法」がこんなに”進歩的”であったのか?それは儒教・朱子学の影響だそうな。当時の西洋の人権観念は、諸個人の自由を侵害しないよう、国家の行為に足かせをはめるもの。人権規定は国家にマイナス行為をさせない、個人に干渉しないというのが良い政府である(アメリカのリバタリアンが典型)しかし警察力や国防力は積極的に肯定する…これはネオリベ思想になる。
ところで朱子学ではどうとらえているのか?下川玲子「朱子学から考える権利の思想」(2017年ぺりかん社)を参照すると…

朱子学から考える権利の思想
そもそも朱子学では積極的に国家権力を想定していない…それはマルクス主義の理想(共産主義の高次段階)であると関さんはおっしゃったが、私はアナキズムに近いものではないかと考える。人間は本来的に善(性善説)であり、社会不安が取り除かれれば、諸個人の「天命の性」にそった善性は開花する。そのため、福祉の教育を充実させるための国家の機能は否定されない。国家にマイナス行為をさせないというだけでなく、プラス行為をさせる論理である。ちなみに儒教思想では、人間が犯罪を犯した場合でも、刑罰はすべて教育に収斂する、死刑廃止論に通じるものもあり、福祉や教育が充実していれば警察はいらないという考えにも連なる(そのわりに江戸時代には「打首獄門」などの残酷な刑罰もあったわけだが…)西洋のホッブズ的な社会契約論…「万人の万人に対する闘争」になるので、警察や軍隊などの暴力装置で社会秩序を維持、そのかわり国家は諸個人の内面の自由を侵害してはならない…から帰結する、警察や軍などの暴力が強調される「ネオリベ国家」に対する、東洋の儒教的「社会契約論」では、人間は本質的に善であるから、国家権力は不要、ただ人間が悪をなすのは貧困など善制の発現を阻害する要因があるからであり、国家は教育や社会福祉を通して、諸個人の天命の性を発揮できるようサポートするもの、「福祉国家」が対置される…ということだそうな。このへん、関さんは「異論や反発も多いでしょうが…」とおっしゃった。私も朱子学というのは「封建秩序」を維持するためのイデオロギーだと考えていたが、なるほどこうした見方もあるのかと感心した次第である。(儒教政策
下で福祉や教育が”充実しなかった”のは、生産力その他の要因もあるだろう)

その後、関さんは江戸を否定し西洋近代を否定した福沢諭吉と、江戸の儒教をベースに近代化を目指した渋沢栄一の違いにもふれられた。福沢は”貧民を甘やかすな”というネオリベ的近代化であり、渋沢は福祉と教育を重視する江戸的近代化を目指したということである。(一万円札の肖像が福沢から渋沢に代わるのも、なにかネオリベ政策が行き詰ってきた象徴でもある?)また、江戸時代に生まれ、儒教教育を受けた人たちが自由民権運動をやっていたという指摘もなされた。
江戸時代からの内発的近代のシナリオを取れば、天皇は儀礼や宗教のみつかさどる象徴天皇制や、大きな福祉・教育、小さな治安維持機構をもつ国家になったであろうところを、「神道原理主義」で明治維新を行った結果、侵略主義に染まり、大きな軍隊と小さな福祉しか持たない「大日本帝国」が出来上がった…それが敗戦によって”象徴天皇制の福祉国家をGHQにより”押し付けられた”ということになる。なお関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得るということだ。日本は、江戸の儒教文化を継承した合理的、普遍的、内発的な近代化の道を歩んでいたにもかかわらず、前近代的で家父長主義的な国家神道原理主義者たちが、覇権国の軍事支援を受けて政権を奪取し、西洋列強に従属しつつ、国内では抑圧的、対アジアでは侵略主義的な「国体」を77生み出したのが「明治維新」あんおである。
その後、休憩のあと質疑応答の時間。そしてまとめのあいさつでは、社民党の服部良一幹事長が発言され、現行憲法をないがしろにする、重要経済安保情報の保護及び活用に関する法案が審議されていることへの警鐘をならされた。