戦争あかん!ロックアクション主催の集会、明治維新の正体パートⅣ
「ありえたかもしれない江戸の憲法ともうひとつの近代史」に参加してきた。

司会あいさつ、新社会党で茨木市議の山下けいきさん(維新のふるさと、鹿児島出身)の主催者あいさつの後、関良基さんの講演が始まる。講演は関さんが出版された新刊「江戸の憲法構想 日本近代史のイフ」(作品社)を基にしている。
![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
本の帯には前法政大学総長の田中裕子氏(こんな”腐れリベラル”から推薦もらうなよ!)の推薦のことばがあり「江戸時代からやり直さなければならない」とある…これは江戸時代に戻れではなく、江戸時代から”やり直せば”侵略戦争をするような国にはならなかったというものだそうね。

用意されたパワーポイントに沿って、講演は進められた。
戦後歴史学の「定説」では、江戸時代、幕末の「公議政体論」とは、遠山茂樹氏が1,946年に著した「明治維新」(岩波新書)などに「…蘭書および中国書によって輸入され紹介された欧米の議会制度の外形だけの知識によって、…分解せんとする封建政治機構の補強救済策としての列藩会議論に定着していった。…議会制度論は、もっぱら封建的支配者間の対立を緩和し、封建支配秩序を再建する手段として、受け取られたのである」という、まぁ封建社会・封建制度の救済論であり、進歩(明治維新)に対する「反動」としてとらえられてきた。また、輸入思想・政体であり、内発的なものではないとされていたわけだ。
![明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/rakutenkobo-ebooks/cabinet/2637/2000010582637.jpg?_ex=128x128)
明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]
ところで、渋沢栄一は1917年「徳川義信公伝」において、横井小楠や赤松正三郎の議会政治思想を紹介している。それは決して輸入ものではなく、日本独自のものであったとして「気運の然らしむるところ、欧州思想の模倣とのみは言ふ能わざるなり」と記述しているそうだ。大正時代に、横井小楠や赤松小三郎ら”議会政治の先駆者”が知られていたにもかかわらず、戦後歴史学(マルクス主義・講座派史学)からその功績が消えていたのは、なぜなんだろう?
それはともかく、関さんから「江戸時代(慶応)の憲法構想」として、6人が紹介される…ジョセフ・ヒコ(播磨の百姓で江戸見物からの帰りに船が遭難、アメリカ船に救出され米国で教育をうけ、帰化する。日本に帰って「海外新聞」の主筆となる…濱田彦蔵)、赤松小三郎(上田藩、薩摩藩の兵学教授)、津田真道(津山藩、開成所教授・幕臣)、西周(津和野藩、開成所教授・幕臣)松平乗謨(奥殿藩・龍岡藩、公儀陸軍総裁・老中格)山本覚馬(会津藩)である。6名とも天皇については、明治維新国家がやったような神格化、強大な権力を持たせたり、軍隊を統率させたりするのではなく「お飾り」としての機能すなわち「象徴天皇制」を掲げていた(アメリカ帰りのジョセフ・ヒコ案は、天皇についての記述なし…この人は幕藩体制の行政機構、老中とか奉行とかをそのまま、アメリカ的な政体に移行できると考えていたようだ)赤松小三郎や松平乗謨は議会の決議に天皇の拒否権を認めず、西周や山本覚馬は、天皇は歴訪や徐爵、神仏儒の長として、江戸時代と変わらぬ儀礼に特化した存在と規定していた。
議員の選出については、庶民を入れるか(普通選挙)公家・武士階級に限定するか(制限選挙)の違いはあるものの、入札(入れ札、村落共同体で行われていた”選挙””投票”)によって選出すべきものとしている。ジョセフ・ヒコや赤松小三郎、山本覚馬は「国民の権利」を記載しており、ヒコは「自由権」を尊重する考え方…米国流で、国家に対し、個人の銃を妨げるマイナス行為をさせないというもの、赤松と山本のものは、法の下の平等の他、「人々その性に準て充分を尽くさせ候事…諸学校を増し、国中の人民を文明に育み候儀、治国の基礎」(赤松)「人を束縛せず、其所好をなし、長技を尽くさしむ可し、また従来上下隔絶の塀を止メ、貴賤混淆学術技芸を磨しめ、官二当るは貴賤等級を不論」(山本)と、諸個人の「性(個性)」や「長技(長所)」を伸ばすべく、国家は教育などによってサポートすべし、国家は人びとに対し、プラス行為を行えということが打ち出されている。これは西洋の人権観念の模倣ではなく、儒教(朱子学)的な人権論であると関さんは考えている。(儒教・朱子学の評価については後ほどもでてくる)
6人の政治的スタンスに、政体が中央集権的か、分権・封建制的か、民衆の参政権をどれだけ認めるかに違いがあるものの、明治維新以外に、近代に向かう多様な可能性があったということを示している。逆に維新を実行した「薩長」の側から、こうした憲法構想なんかはでてきていない…彼らがいかに「天皇を国の中心においた」、神がかり的かつ強権的な政治体制を考えていたか、逆になぁ~にも考えず、権力を取ることのみに集中していたか?ということなのだろう。
つづいて関さんはマルクス主義史家、井上清氏の「山内容堂なんかの公議政体論というのは、要するに支配者の交代段階にとどめておこうということでしょう」(『日本の歴史20巻 明治維新』(中央公論、1966年)付録での司馬遼太郎との対談)を紹介したうえで、山内容堂(土佐藩主)が徳川慶喜に示した「政権返上建白書(”大政奉還”とは「洗脳」の言葉だから使わないそうな)」に「議事院上下を分ち、議事官は上公卿より、下陪臣庶民に至るまで正明純良の士を撰挙」と書いていたことから、マルクス主義史家たちは、山内容堂の議会政治論を過小評価している…平和革命なぞまやかしで、戊辰戦争によって徳川軍を粉砕する必要があった…また封建支配階級であたっとしても、聡明な人物であれば出身階級の利害に執着せず、自分に不利な変革であっても毅然として断行できるものだと述べた。(マルクスやエンゲルスも決して「労働者階級」ではなかったからね)
山内容堂は、津田真道をはじめ神田孝平や加藤弘之といった幕府の”御用学者”をリクルートして、こういった公議政体論をまとめていったらしい。だが、山内容堂の理想…徳川慶喜も含めた新政府構想…は1867年12月の「小御所会議」における薩長のクーデター…西郷隆盛が「短刀1本で片をつける」と恫喝した…によって葬り去られる。
加藤弘之は翌年、「立憲政体略」というパンフレットのようなものを出した。略とあるから、憲法草案というよりアウトラインというものだが、まず「憲法」を制定して、近代化に必要な一般の法律は「みな国権の枝葉なり」とした。最初に憲法を作成しようというものだ。薩長の政府は、まず民放や刑法などを西洋から輸入してつくり、最後に憲法を制定したが、逆である…ここからも薩長が理想とする国家像や政体像は、天皇が中心であるが漠然としたものぐらいしか考えていなかったことが明らかだ。この「立憲政体略」には立憲、憲法、立法権、行政権、歳入、歳出、代議士といった、今日私たちが使っている法律・政治用語が確立されている。
また、特筆すべきは現行憲法に定められている様々な基本的人権が、「国憲」に書き込まれるべきものとして
①「生活の権利」 生存権(現行憲法25条)
②「自信自主の権利」 正当な理由なしに逮捕・拘禁されない(34条)
③「行事自在の権利」 職業選択の自由(22条)
④「結社及び会合の権利」 集会・結社の自由(21条)
⑤「思、言、書、自在の権利」 思想・言論・出版・表現の自由(19条)
⑥「信法自在の権利」 信教の自由(20条)
⑦「万民同一の権利」 法の下の平等(14条)
⑧「各民所有の物を自在に処置する権利」 財産権(29条)
が掲げられているそうな。特に一番最初に「生存権」が掲げられていることは、当時の西洋人権思想にはないものであり、福祉国家の先駆けでもある。
なお、このような基本的人権を掲げた憲法構想を持つ加藤弘之であったが、のちに「転向」し「キリスト教は吾が国体に甚だ害である。吾が国体が至尊として崇敬するのは皇祖皇宗と天皇のみ。この外に、唯一真理が存在するなどといった妄言は、吾が国体の決して許さぬところである」などとのたまっている。「転向」は、薩摩の”テロリスト”海江田 信義に脅されたからということだそうな。
つづくよ。
「ありえたかもしれない江戸の憲法ともうひとつの近代史」に参加してきた。

司会あいさつ、新社会党で茨木市議の山下けいきさん(維新のふるさと、鹿児島出身)の主催者あいさつの後、関良基さんの講演が始まる。講演は関さんが出版された新刊「江戸の憲法構想 日本近代史のイフ」(作品社)を基にしている。
![江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0267/9784867930267_1_54.jpg?_ex=128x128)
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
本の帯には前法政大学総長の田中裕子氏(こんな”腐れリベラル”から推薦もらうなよ!)の推薦のことばがあり「江戸時代からやり直さなければならない」とある…これは江戸時代に戻れではなく、江戸時代から”やり直せば”侵略戦争をするような国にはならなかったというものだそうね。

用意されたパワーポイントに沿って、講演は進められた。
戦後歴史学の「定説」では、江戸時代、幕末の「公議政体論」とは、遠山茂樹氏が1,946年に著した「明治維新」(岩波新書)などに「…蘭書および中国書によって輸入され紹介された欧米の議会制度の外形だけの知識によって、…分解せんとする封建政治機構の補強救済策としての列藩会議論に定着していった。…議会制度論は、もっぱら封建的支配者間の対立を緩和し、封建支配秩序を再建する手段として、受け取られたのである」という、まぁ封建社会・封建制度の救済論であり、進歩(明治維新)に対する「反動」としてとらえられてきた。また、輸入思想・政体であり、内発的なものではないとされていたわけだ。
![明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/rakutenkobo-ebooks/cabinet/2637/2000010582637.jpg?_ex=128x128)
明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]
ところで、渋沢栄一は1917年「徳川義信公伝」において、横井小楠や赤松正三郎の議会政治思想を紹介している。それは決して輸入ものではなく、日本独自のものであったとして「気運の然らしむるところ、欧州思想の模倣とのみは言ふ能わざるなり」と記述しているそうだ。大正時代に、横井小楠や赤松小三郎ら”議会政治の先駆者”が知られていたにもかかわらず、戦後歴史学(マルクス主義・講座派史学)からその功績が消えていたのは、なぜなんだろう?
それはともかく、関さんから「江戸時代(慶応)の憲法構想」として、6人が紹介される…ジョセフ・ヒコ(播磨の百姓で江戸見物からの帰りに船が遭難、アメリカ船に救出され米国で教育をうけ、帰化する。日本に帰って「海外新聞」の主筆となる…濱田彦蔵)、赤松小三郎(上田藩、薩摩藩の兵学教授)、津田真道(津山藩、開成所教授・幕臣)、西周(津和野藩、開成所教授・幕臣)松平乗謨(奥殿藩・龍岡藩、公儀陸軍総裁・老中格)山本覚馬(会津藩)である。6名とも天皇については、明治維新国家がやったような神格化、強大な権力を持たせたり、軍隊を統率させたりするのではなく「お飾り」としての機能すなわち「象徴天皇制」を掲げていた(アメリカ帰りのジョセフ・ヒコ案は、天皇についての記述なし…この人は幕藩体制の行政機構、老中とか奉行とかをそのまま、アメリカ的な政体に移行できると考えていたようだ)赤松小三郎や松平乗謨は議会の決議に天皇の拒否権を認めず、西周や山本覚馬は、天皇は歴訪や徐爵、神仏儒の長として、江戸時代と変わらぬ儀礼に特化した存在と規定していた。
議員の選出については、庶民を入れるか(普通選挙)公家・武士階級に限定するか(制限選挙)の違いはあるものの、入札(入れ札、村落共同体で行われていた”選挙””投票”)によって選出すべきものとしている。ジョセフ・ヒコや赤松小三郎、山本覚馬は「国民の権利」を記載しており、ヒコは「自由権」を尊重する考え方…米国流で、国家に対し、個人の銃を妨げるマイナス行為をさせないというもの、赤松と山本のものは、法の下の平等の他、「人々その性に準て充分を尽くさせ候事…諸学校を増し、国中の人民を文明に育み候儀、治国の基礎」(赤松)「人を束縛せず、其所好をなし、長技を尽くさしむ可し、また従来上下隔絶の塀を止メ、貴賤混淆学術技芸を磨しめ、官二当るは貴賤等級を不論」(山本)と、諸個人の「性(個性)」や「長技(長所)」を伸ばすべく、国家は教育などによってサポートすべし、国家は人びとに対し、プラス行為を行えということが打ち出されている。これは西洋の人権観念の模倣ではなく、儒教(朱子学)的な人権論であると関さんは考えている。(儒教・朱子学の評価については後ほどもでてくる)
6人の政治的スタンスに、政体が中央集権的か、分権・封建制的か、民衆の参政権をどれだけ認めるかに違いがあるものの、明治維新以外に、近代に向かう多様な可能性があったということを示している。逆に維新を実行した「薩長」の側から、こうした憲法構想なんかはでてきていない…彼らがいかに「天皇を国の中心においた」、神がかり的かつ強権的な政治体制を考えていたか、逆になぁ~にも考えず、権力を取ることのみに集中していたか?ということなのだろう。
つづいて関さんはマルクス主義史家、井上清氏の「山内容堂なんかの公議政体論というのは、要するに支配者の交代段階にとどめておこうということでしょう」(『日本の歴史20巻 明治維新』(中央公論、1966年)付録での司馬遼太郎との対談)を紹介したうえで、山内容堂(土佐藩主)が徳川慶喜に示した「政権返上建白書(”大政奉還”とは「洗脳」の言葉だから使わないそうな)」に「議事院上下を分ち、議事官は上公卿より、下陪臣庶民に至るまで正明純良の士を撰挙」と書いていたことから、マルクス主義史家たちは、山内容堂の議会政治論を過小評価している…平和革命なぞまやかしで、戊辰戦争によって徳川軍を粉砕する必要があった…また封建支配階級であたっとしても、聡明な人物であれば出身階級の利害に執着せず、自分に不利な変革であっても毅然として断行できるものだと述べた。(マルクスやエンゲルスも決して「労働者階級」ではなかったからね)
山内容堂は、津田真道をはじめ神田孝平や加藤弘之といった幕府の”御用学者”をリクルートして、こういった公議政体論をまとめていったらしい。だが、山内容堂の理想…徳川慶喜も含めた新政府構想…は1867年12月の「小御所会議」における薩長のクーデター…西郷隆盛が「短刀1本で片をつける」と恫喝した…によって葬り去られる。
加藤弘之は翌年、「立憲政体略」というパンフレットのようなものを出した。略とあるから、憲法草案というよりアウトラインというものだが、まず「憲法」を制定して、近代化に必要な一般の法律は「みな国権の枝葉なり」とした。最初に憲法を作成しようというものだ。薩長の政府は、まず民放や刑法などを西洋から輸入してつくり、最後に憲法を制定したが、逆である…ここからも薩長が理想とする国家像や政体像は、天皇が中心であるが漠然としたものぐらいしか考えていなかったことが明らかだ。この「立憲政体略」には立憲、憲法、立法権、行政権、歳入、歳出、代議士といった、今日私たちが使っている法律・政治用語が確立されている。
また、特筆すべきは現行憲法に定められている様々な基本的人権が、「国憲」に書き込まれるべきものとして
①「生活の権利」 生存権(現行憲法25条)
②「自信自主の権利」 正当な理由なしに逮捕・拘禁されない(34条)
③「行事自在の権利」 職業選択の自由(22条)
④「結社及び会合の権利」 集会・結社の自由(21条)
⑤「思、言、書、自在の権利」 思想・言論・出版・表現の自由(19条)
⑥「信法自在の権利」 信教の自由(20条)
⑦「万民同一の権利」 法の下の平等(14条)
⑧「各民所有の物を自在に処置する権利」 財産権(29条)
が掲げられているそうな。特に一番最初に「生存権」が掲げられていることは、当時の西洋人権思想にはないものであり、福祉国家の先駆けでもある。
なお、このような基本的人権を掲げた憲法構想を持つ加藤弘之であったが、のちに「転向」し「キリスト教は吾が国体に甚だ害である。吾が国体が至尊として崇敬するのは皇祖皇宗と天皇のみ。この外に、唯一真理が存在するなどといった妄言は、吾が国体の決して許さぬところである」などとのたまっている。「転向」は、薩摩の”テロリスト”海江田 信義に脅されたからということだそうな。
つづくよ。