1週回以上前の話だが、映画福田村事件を観てきた。(少々ネタバレあり、注意)
 関東大震災における、流言飛語による朝鮮人・中国人などの虐殺事件のなかで、朝鮮人と間違われて被差別部落民が殺された事件を題材にしている。
 本題である朝鮮人に対する虐殺を描かないでどうするんだ!というような批判もあるのだが、この映画は朝鮮の植民地化、独立運動圧殺や差別もベースにきちんと描かれているし、部落差別や女性差別・抑圧、ハンセン患者への差別も描かれている。そして社会主義者の虐殺、されに「大正デモクラシー」の敗北が、次の悲劇を生んでいったであろうということも暗示される。(もちろん、関東大震災時における敗北が、ストレートに次の戦争への悲劇につながったわけではない。抵抗は1,920~30年代も継続されたのであるが…)

 映画は、大震災が起こる前の福田村や周辺のひとびと、また殺される讃岐の行商団の様子を細かく伝える。福田村に、朝鮮で教師をしていた沢田智一(井浦新)がつれあいを連れて帰ってきた。汽車の中でシベリア出兵で夫を亡くした島村咲江(コムアイ)が一緒だ。村の入り口で在郷軍人たちが盛大に咲江を迎える。インテリである村長(豊原功補)は同じインテリの沢田の帰郷を喜び、村にデモクラシーを根付かせるため一緒に頑張ろうと励ますが、沢田は村でなれない農業を始める。
 行商団は被差別部落の人たちが、食うために讃岐の村をあとにした。ハンセン病患者に”効かない薬”を売りつけることもする(もちろん効かない薬ばかり売っているわけはない。また効かない薬であっても、それが必要とされることもある)彼らは被差別者であるが、日本に来ている朝鮮人に対する意識は様々だ。あからさまに差別感情を持っているも者は、朝鮮人の飴売りに対し「(朝鮮人の飴は)何が入っているかわからん!」といって蔑むが、その言葉を聞いた行商団のリーダー、沼部新介(永山瑛太)は「自分も同じようなこと…部落民のつくるものには、何が入っているかわからん…を言われた」とそれをたしなめ、飴をたくさん購入する。行商団の何人かは「お守り」を持っているが、それは「水平社宣言」が書き込まれた紙であった。
 町では労働争議が行われたりして、赤旗・黒旗が掲げられたりもしている。争議では朝鮮人が戦闘的に闘うそうで、それを憎々しげに語る村の労働者がいる。新聞記事は「いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩の仕業か」と世論を煽り、市民の不安と恐怖在郷軍人も含む村の宴会では、日清戦争時の「旅順の虐殺」経験者も出てくるが、年齢的には朝鮮植民地化前後の、独立運動弾圧をしてきた人たちなのであろう。朝鮮人虐殺に向かう下地は、十分に描かれている。村での女たちの「不倫」模様も描かれるが、「不倫」は家父長制への反抗である!「不倫」への非難は「男が安心して戦場で戦えない!」という、まことに身勝手なものでもあった…家父長制が天皇制をささえ、戦争を支えているのだ!
 震災が起こる…避難民が逃げてくるとともに、「朝鮮人が火をつけた」「井戸に毒を入れた」などの流言飛語もやってくる。良識をもっている村長はそんなことはないと否定するが、村では在郷軍人が自警団を結成し、気勢をあげる。恐怖と憎悪に包まれる中、沢田はつれあいに、朝鮮で独立運動鎮圧の虐殺(「堤岩里(チェアムリ)教会事件」らしい)に加担していたことを語る。東京ではすでに、朝鮮人虐殺や社会主義者虐殺が始まっている。飴売りの朝鮮人少女も虐殺された。
 戒厳令が出され、治安は軍や警察、行政が責任をもつことになったので、村の自警団はいったん解散だ。何かことを期待していたのか、残念がる村の男たち…女たちは「戦争ごっこ」だと男たちを非難し、早く日常の仕事に戻るよう促す…だがそこに行商団がやってくる。渡し舟で川を渡りたいが、15人もの人間と大量の荷物だ。渡し守(東出昌大)とトラブルになり、村の人も集まってくる。ここで「朝鮮人ではないか?」と疑われるわけだ。半鐘が鳴らされ、さらに多くの村人が竹やりなどの武器も携えてやってくる。村の警察は、行商の鑑札を確認が済むまで手をださないよう注意するが、在郷軍人たちは「十戦十五倫と言ってみろ」「歴代天皇の名前を言ってみろ」などと尋問を繰り返す。沢田のつれあいが「私はこの人たちから薬を買った、この人たちは朝鮮人ではありません!」と必死に弁護するが、リーダーの沼部伸介は「朝鮮人ならころしてもええんか!」と、まっとうなことを叫ぶ、それと同時に彼の頭にとび口が下ろされ、虐殺がはじまってしまう…
 沼部の「朝鮮人だったらころしてもええんか!」というのは普遍的な人権思想、いやそれ以前のあたりまえのことだと思うのだが、その当たり前を叫んだ直ぐ後に、それを打ち消す虐殺が始まる描写は、本当に恐ろしい…まっとうな意見が通らず、虐殺がはじまってしまう差別社会ニッポン(「同調圧力」のせいだけにしてはイケナイ)の恐ろしさである。まやこのセリフは、様々なものに置き換えて考えることができる…「障害者だったら、ころしてもええんか!」「トランスジェンダーだったら…」「外国人だったら…」あるいは「アイヌだったら、琉球人だったた遺骨をかえさなくてええんか」「沖縄だったら、基地が集中していてもええんか」等々…この叫びは、死刑制度に反対し、オウム事件をドキュメンタリーとして撮ってきた森達也監督もいちばん言いたかったことだろう。

 虐殺のシーンは、ある意味しつこく描写される…何人からも竹やり等で突かれ、川に追い詰められ、死体は画がされる…殺される側の理不尽さ、恐怖をまじまじと見せつけられるが、これは同時に朝鮮人に対して、もっと大規模に行われてきたのだ!それを想像しなさいということだと思う。また、事件後、生き残りの少年が取り調べる刑事に対し、虐殺された9人の名前、それと生まれてくるはずだった赤ん坊につける予定の名前を告げる…これも、虐殺された人には、一人ひとり、名前のある、人生をいきていたのだ!ということだ。飴売りの朝鮮人少女も、殺される寸前、奪われた自分の名前を高らかに叫んだ!このことも、皆さん、想像してくださいということだ。

 映画「福田村事件」いい映画なので、絶対に観ろ!と書いておく。