たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

2024年05月

沖縄南部視察

 5月27日は、土砂全協で沖縄南部の基地や戦跡、鉱山めぐりである。
 なおこの日の午前中は、共同代表の阿部悦子さんや、北上田顧問、湯浅顧問などといっしょに沖縄県知事と面談し、埋立承認の再撤回や土砂条例の適用、海砂採取の規制などを提案した。同様の提案を午後には県庁の部長クラスにも面談して行ったとのことである。
 まず、うるま市から八重瀬町に行き、八重瀬分屯地などを見に行く。
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 バスの中からの撮影でわかりづらいが、四角いレーダーが見える…航空自衛隊の与座岳レーダー、通称「ガメラレーダー」と呼ばれている。電磁波の影響が心配されている。
 このあたりは、琉球王朝以前、南山の有力な士族の城(グスク)があり、代々支配していたところ。また沖縄戦で守備軍が朱里を撤退してから、最後の防衛線が引かれたところでもある…まぁ要衝というわけだ。
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 八重瀬分屯地に到着…

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 ハイ、第十五高射特科連隊でありますっ!
 となりは那覇ゴルフ倶楽部という、有名なゴルフ場となっている。分屯地よりもゴルフ場の方が広い。
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 ここももともとは米軍が接収した基地であり、敷地内には5つほど御嶽があった…それをまとめてお祀りした「八重瀬御嶽」である。ガジュマルの木が立派‼

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 陸自の与座南分屯地の門…ここはバスの転回ができないので、素通りする。
 八重瀬のあたりの視察を終え、糸満方面へ…途中「野戦重砲兵の碑」という戦跡碑があるのだが、慰霊碑周辺の石灰岩が削られ、畑になったため、碑が宙に浮いたかっこうになっている(写真なし)土砂や砕石の採取により、慰霊塔や碑の管理、周辺の風致の維持が難しくなっているということだ。
 また糸満では「名城一家全滅屋敷」というのがあり、沖縄戦で「一家全滅」した人の家屋敷が残っていたものであるが、相続で「売却」に出されたりということも起こっている。実際「売物件」というのぼりが立っていた。戦争遺構の保全も、地元自治体や沖縄県だけではなかなか難しいのである。
 バスの中で、沖縄戦で使われた砲弾の破片がまわってくる…これは重たい!こんなものが飛んできて、人びとを殺していくのが戦争なのだ。
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 糸満の「一家全滅屋敷」にたつ「売物件」のぼりを見てから、すこし戻って陸軍病院山城本部壕跡に行く…近くにバスを止める駐車場がばいので、住宅とさとうきび畑の中を歩いて到着。
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 写真ではわかりにくいが、遠くに「ガメラレーダー」が見えるのだ。

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 碑の前で説明…もともとの自然鍾乳洞に、地元の人が避難していた。そこに1945年5月下旬、南風原から陸軍病院が撤退してきた。この場所を本部壕とし、他第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕を設けた。なお、撤退してきたときは薬品や手術道具もほとんどなく、病院としての機能は失われていたそうな。その後6月14日、本部壕付近に直撃弾が落ち、病院長が戦死…6月18日に「解散」ということになる。実質、病院関係者や負傷者は3週間ほどここにいたことになる。
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 入口のところ…

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 急な、すべりやすい洞窟をおりていく。

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 茶碗などのかけらが落ちている…

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 奥には水がたまっている…病院壕ということで、もっと奥があるのかと思ったが、意外にあっさりと”終点”だったかんじだ。
 さて、病院壕をあとにして、海のほうに向かう。

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 幹線道路から奥にはいって、束里鉱山である。もし、ここから辺野古に向けて土砂が搬出されるとすると、膨大なダンプトラックが列をなして、南部の道路を通ることになる。
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 向こうの方に、埋め戻しに使う?謎の残土が積まれている…こうした土も辺野古に持っていくのかもしれない?
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 鉱山周辺の道路は、こんなかんじだが…

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 この道路から、荒崎海岸に出るのだ。(あの狭い道路に、糸満のバスも来る)

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 荒崎海岸…ここで弁当を食べる…海の右側は、東中国海、左側が太平洋である。

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 左側をずっと行くと、ひめゆり学徒散華の跡という碑があるのだが、戦争の犠牲を「散華」華と散る…などと称賛するのは、いかがなものだろうか?

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 荒崎海岸を後にして、魂魄の塔へ…

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 このあたりは、いろんな県の「鎮魂碑」「鎮魂塔」が建てられている…県営平和祈念公園のエリアなのだが、隣接して熊野鉱山があったりする。
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 飛行機の時間の都合から、私他数名がここで一行から分かれて、空港に向かう…ほかの人たちは、このままひめゆりの塔や、ひめゆり平和祈念資料館などを観ることになっている。

 なかなか南部戦跡までめぐる機会はないものなのだが、いい経験であった。
 それではまわ… 

沖縄、うるま市の基地視察

 総会と講演の後、26日の午後はうるま市内の軍事基地を視察…
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 陸上自衛隊勝連分屯地である。

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 第七地対艦ミサイル連隊、第十五高射特化連隊第二高射中隊ということで、地対艦ミサイル部隊と、地対空(防空)ミサイル部隊がすでに配備されているのだ。

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 うるま島ぐるみ会議の皆さんから、説明をうける…勝連分屯地は勝連半島にある米軍基地、ホワイトビーチのほんの一部みたいな感じに位置している。周辺はほぼ「ホワイトビーチ」の用地となっている。ここに来る道路も、ホワイトビーチに囲まれ、周辺にはスーパーもコンビニもない山の中だ…なので部隊配備で自衛官が増えたから、周辺地域にに宿舎を作る計画も持ち上がってきそうだということだ。
 また、基地内には新たに「体育館」が整備された。「弾薬庫」はあるが、ミサイル用の大規模なものではない。老朽化しているので、建て替えられるだろうとのことである。
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 ホワイトビーチも含めた、「土地規制法」にひっかかるエリア…集落や保育園、小中学校から高等学校まである。
 なお、入り口の警備をしている自衛官は、銃を持っている。
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 つづいて、平敷屋公園、平敷屋タキノ―という、ため池を掘った土を積み上げたという公園にのぼると…
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 ホワイトビーチの桟橋が、どかっと見えるのだ‼
 なお、写真右方面には、潜水艦が停泊したりするそうな。

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 こんな感じですね…

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 ホワイトビーチの反対側を望む…勝連半島は、海中道路で宮城島や浜比嘉島とつながっている…宮城島には石油備蓄基地がある。
 勝連半島を後にして、うるま市内にもどり、国道を北上する。高速道路の石川インター出口を超えてから左折して住宅地の中に入っていき、高速道路を超えると…

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 自衛隊訓練場が計画されていた、東山(あがりやま)カントリークラブ跡地に到着!

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 目の前には立派な住宅地が広がっている…何もなかった山の中に、人を定着させるため良好な住宅地を開発した…住宅地の購入は”抽選”で行われるほどの人気があったそうだ。また、この先には「沖縄県立石川青少年の家」という施設があり、県民にとっても大切なところである…そんなところに「根耳に水」の自衛隊訓練場の計画が降ってきた!防衛省、自衛隊は何を考えていたのか?おそらく宮古島や石垣島のように、住民の抵抗があっても押し切れると「甘くみた」のであろう。一方、住民の側は報道で計画を知って、びっくり!地域の自治会などで反対の声がもりあがり、大きな運動になった。保守系の議員もまきこんで(6月に沖縄県議会選挙がある!)反対の声があがることになる…ということで、防衛省・自衛隊は演習場計画を”撤回”させることになった。

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 以上、うるま市での視察を終え、ホテルに帰る。

辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会総会と講演

 5月26日はうるま市内のホテルで、辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会(以下、土砂全協と書く)の総会と講演会である。
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 朝9時半から、講演会…土砂全協の共同代表、大谷さんのあいさつ。
 つづいて、鹿児島の平和運動センター事務局長、真島さんから、奄美大島やさつま町に計画されている弾薬庫建設問題について語られた。与那国島や宮古島でもそうだが、一旦基地ができると、その基地の中でどんどん施設が追加される…市民の目の届かないところで大きくなっていくことを批判された。DSC00608
 また、中期防で43兆円もの軍事費を費やすが、軍事費が5兆円あればどれだけのことができるのか?水道や橋梁などのインフラが老朽化している、そういったことへの対策にも使えるのではないかと述べられた。
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 沖縄平和市民連絡会の北上田さんは、代執行でも破綻する辺野古新基地建設ということで講演。膨大なパワーポイント資料(1部300円)の一部分を説明される。奄美大島からの土砂搬入を検討しているという報道が流れたが、防衛局は「県外からの土砂搬入は考えていない」と言っている…おそらくぼじょ的な量になるであろう。奄美大島からの材料は那覇空港の拡張工事で使われたが、使ったのは岩塊であって外来生物対策の対策は流水で洗浄するという方法をとった。辺野古埋め立てで使うのは土砂であり、洗浄はできない。熱処理の実験をしたというが、1600万㎥の加熱処理は不可能だ!と述べられた。
 また裁判の敗訴などで「手詰まり」状態に陥っているが、それを打破するため改めて埋め立て承認の再撤回や、県の許認可を厳しくする(塩川港においているベルトコンベヤーなど)などのことをやらないといけない。明日、土砂全協でデニー知事との面談や、部長級の職員とも会う予定であると述べられた。
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  その土砂全協の顧問で(北上田さんも顧問であるが)ピースデポ副代表の湯浅一郎さんより「生物多様性問題で再度の大浦湾埋立承認の撤回を!」という題の講演。また「海洋保護区」たる共同漁業権区域から海砂採取を禁止することで、軟弱地盤改良工事に使う砂を供給させないことについて述べられた。
 「生物多様性条約」は「気候変動枠組み条約」よりも知られていないが、日本はそれを締結している。2022年12月には「第15回締約国会議(COP15)」が開かれ、「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択された。それに基づき日本政府も「生物多様性国家戦略72023-2030ーネーチャーポジティブ実現に向けたロードマップ」が閣議決定され「陸と海の少なくとも30%を保護区とする」ということになっている。大浦湾を海洋保護区とし、再度の埋め立て承認の撤回を図ることは可能である。また、沖縄島のほとんどすべてが共同漁業権が設定されており、海洋保護区扱いである。ただ、漁業権が「放棄」された辺野古・大浦湾は違う…海洋保護区と隣接したところで、工事が行われているわけである。大浦湾は「ホープスポット」に認定されている、日本の中でもトップクラスの生物多様性があるところだ。辺野古の埋め立て工事が生物多様性国家戦略に抵触しないのか?例えば公開質問状を政府に出すというのも一つの方法だと述べられた。
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 大分敷戸ミサイル弾薬庫問題を考える市民の会の池田年宏さんからの、地域の運動の報告。「おんせん県」にミサイル弾薬庫というパンフレットを手に説明される。敷戸弾薬庫の予定地は、周囲3㎞に4万人もの人が住んでいるところだそうな。このパンフレットを広めてくださいとのこと…
 広島、呉の新田さんは、広島湾の中にたくさんの軍事基地がある、呉には42隻の艦船がいるとして、空母化してF35 Bを運用する護衛艦「かが」や、LCAC(エルキャック)を積んでいる「おおすみ」などを映された。日鉄の跡地を取得して、呉の軍港は80haから130haに拡大するが、多機能な防衛し悦が建設されるとのことだ。対抗して9月21,22日に全国集会をやるという話もされた。
 「辺野古土砂ストップ北九州」の八記さんは、北部九州の運動を紹介された。沖縄の「命どぅ宝の会」新垣さんは、住民運動がどんどんできている、ネットワーク化をしていく、つながりましょうとおしゃられた。
 皆さん、がっつりしゃべれば2時間ぐらいの内容をもっておられるのだが、各自25分の持ち時間…その後、土砂全協の総会が行われる。
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 運動方針や決算報告、予算案報告がある…決算・予算では、機関紙の印刷代や発送費用が値上がりしていることが報告された。また、私も知らなかったのだが「塩川基金」といって、塩川港に行く人を増やそう!ということで、塩川に行って申請すれば、一律1万円の補助が受けられる制度をつくったのだが、知られておらず3組3万円の支給しか行っていないとのことであった。(「塩川基金」は今年度も予算化はした)
 決算、予算、運動方針などがとりあえず可決され、昼食の時間となる(つづくよ) 

久しぶりの沖縄・辺野古

 25日から、辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会の総会ということで、沖縄に行ってきたぞ!超久しぶりの沖縄・辺野古である。
 朝早くの飛行機に乗って、沖縄入り…やっぱり蒸し暑い!
 12時に貸し切りバスで県庁前を出発して、辺野古へ…
 「第二辺野古」と名乗っていたバス停が「沖縄高専入口」と名称変更されている!
 土曜日で工事がなかったためか、シュワブ前のテントにはだれもいない。
 浜のテントには、4年前から中村吉且さんという方が詰めておられる。辺野古新基地建設の概要の説明…向こうには、海面上8mに積み上げられた埋め立て地が見える…また、浜のテントでは中村さんがつくった「沖縄 壊死する辺野古の風景 2024」というパンフレットも500円で販売である。非常に内容が濃いパンフレットだ。ちなみに、中村さんのおつれあいさんは、過去に辺野古で機動隊の暴力により、大怪我をさせられたお方である。
 浜のテントの裏には、でっかいグランド(野外音楽堂付き)が整備されている…昨年度にできたらしい。なんか凄いな!子どもたちが野球の練習をしていたよ。もちろん、基地建設”容認“の見返りとして予算がついて出来たものであるが、名護市の東海岸にある公共のグランドとして、使い勝手はよいものだそうな。
 中村さんをバスに乗せて、工事の概況を説明してもらう…昔、多くの人が座り込みをして「排除」されているシュワブ前ゲートは、現在、ほとんど工事に使われておらず「第4ゲート」というところで、美謝川付け替え工事や、弾薬庫整備の工事車両を止める行動が行われているそうだ。また辺野古ダム周辺から土砂採取を行うため。30haもの山林を伐採している…これはキャンプ・シュワブ敷地内であるため、法的には問題にならないそうなのだが、自然破壊そのもの…とにかく、4・5年前に私が辺野古に行っていたころとは、大きく地形や用紙が変わっていて、改めて工事の進捗に怒りを覚えざるを得ない。
(手違いで写真がなくてごめんなさい)
 バスはその後、東海岸を北上し、瀬嵩へ…「ホープスポット」の前で、浦島悦子さんの説明…
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 瀬高の海岸に行って、こちらもどれだけ工事が進められているか見ることになる。
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 大きな台船があるところに「作業ヤード」を作ると称して捨て石が投下されている。国が勝手に決めた「制限海域」を使役るフロートが目の前に漂う…カヌー隊は、それを乗り越えて抗議行動を行っているそうな…おりしもこの日から、辺野古新基地建設のための「サンゴ移植」が始まっている(サンゴは移植してもほとんど成功しないのだが、気候の悪い5月~10月に移植を行うなど、ナンセンスの極みである)また、浦島さんもおっしゃっていたのだが、軟弱地盤を地盤改良するということは、そこに住む生き物が死に絶えるということである…絶対に許してはならない!
 その他、浦島さんは沖縄戦時に収容所を大浦岬(辺野古岬…地理に詳しくないアメリカ軍は、大浦岬と勝手に呼んだ)に建設し、本部半島や家島の住民を”収容“したこと、家島の住民は住んでいるところを米軍に取られ、特に苦労されたこと、また沖縄戦ではこの辺にも米艦船が沢山来たのだが、今、作業船・台船があふれていて、地元で沖縄戦を体験されている方のトラウマになっていることなどを話された。
 瀬嵩を離れて、西海岸へ向かい、安和の土砂積み出し港へ…東京から名護に移住された方が説明。
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 安和は説明だけで終わり、さらに北上して塩川港へ…
 ここで、みんなといっしょに「牛歩」をやって、ダンプトラックを止める。
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 警備員、テイケイ‘の皆さんが「車両が通ります…速やかにお渡りください」と言いづづける中(のどがいたくならないのか?)ゆっくり、ゆっくり歩く…多くが高齢者ばかりで、つえをついている人もいる中、これはほんとにいい戦い方だと思った…警察・機動隊もウルサイことは言わない(もっとも警察権力とこういった”関係“になるのは、それなりに力関係を発揮しているからなのであるが…)
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 先日から梅雨入りし沖縄で、県庁前から高速道路では大雨、辺野古・瀬高ではいい天気だったが、塩川港ではパラパラと雨が降ってきた…「日和見主義者」なので、雨が降ったら、バス内に退避⁉
 塩川港は県の施設なので、5時には仕事が終わる(終えなかればならない)…安和は民間(琉球セメント)の施設なので、夜8時ごろまで搬出、阻止行動が続くこともあるそうだ。
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 塩川を離れて、海には土砂運搬船が多数、待機しているのが見えた…喫水が上がっているので、カラ荷の船である。

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 塩川港をあとに、名護から高速道路を南下、今日の宿泊地であるうるま市のホテルに投宿…ここで「懇親会」である…ではでは。

徳川幕府を倒した赤松小三郎?

 さて、「江戸の憲法構想」の中から興味深いお話を拾い出してみる…
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江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
 銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
 次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)

 その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
 そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
 鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
 薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!

 とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
 薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

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