5月27日は、土砂全協で沖縄南部の基地や戦跡、鉱山めぐりである。
なおこの日の午前中は、共同代表の阿部悦子さんや、北上田顧問、湯浅顧問などといっしょに沖縄県知事と面談し、埋立承認の再撤回や土砂条例の適用、海砂採取の規制などを提案した。同様の提案を午後には県庁の部長クラスにも面談して行ったとのことである。
まず、うるま市から八重瀬町に行き、八重瀬分屯地などを見に行く。

バスの中からの撮影でわかりづらいが、四角いレーダーが見える…航空自衛隊の与座岳レーダー、通称「ガメラレーダー」と呼ばれている。電磁波の影響が心配されている。
このあたりは、琉球王朝以前、南山の有力な士族の城(グスク)があり、代々支配していたところ。また沖縄戦で守備軍が朱里を撤退してから、最後の防衛線が引かれたところでもある…まぁ要衝というわけだ。

八重瀬分屯地に到着…

ハイ、第十五高射特科連隊でありますっ!
となりは那覇ゴルフ倶楽部という、有名なゴルフ場となっている。分屯地よりもゴルフ場の方が広い。

ここももともとは米軍が接収した基地であり、敷地内には5つほど御嶽があった…それをまとめてお祀りした「八重瀬御嶽」である。ガジュマルの木が立派‼

陸自の与座南分屯地の門…ここはバスの転回ができないので、素通りする。
八重瀬のあたりの視察を終え、糸満方面へ…途中「野戦重砲兵の碑」という戦跡碑があるのだが、慰霊碑周辺の石灰岩が削られ、畑になったため、碑が宙に浮いたかっこうになっている(写真なし)土砂や砕石の採取により、慰霊塔や碑の管理、周辺の風致の維持が難しくなっているということだ。
また糸満では「名城一家全滅屋敷」というのがあり、沖縄戦で「一家全滅」した人の家屋敷が残っていたものであるが、相続で「売却」に出されたりということも起こっている。実際「売物件」というのぼりが立っていた。戦争遺構の保全も、地元自治体や沖縄県だけではなかなか難しいのである。
バスの中で、沖縄戦で使われた砲弾の破片がまわってくる…これは重たい!こんなものが飛んできて、人びとを殺していくのが戦争なのだ。

糸満の「一家全滅屋敷」にたつ「売物件」のぼりを見てから、すこし戻って陸軍病院山城本部壕跡に行く…近くにバスを止める駐車場がばいので、住宅とさとうきび畑の中を歩いて到着。

写真ではわかりにくいが、遠くに「ガメラレーダー」が見えるのだ。

碑の前で説明…もともとの自然鍾乳洞に、地元の人が避難していた。そこに1945年5月下旬、南風原から陸軍病院が撤退してきた。この場所を本部壕とし、他第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕を設けた。なお、撤退してきたときは薬品や手術道具もほとんどなく、病院としての機能は失われていたそうな。その後6月14日、本部壕付近に直撃弾が落ち、病院長が戦死…6月18日に「解散」ということになる。実質、病院関係者や負傷者は3週間ほどここにいたことになる。

入口のところ…

急な、すべりやすい洞窟をおりていく。

茶碗などのかけらが落ちている…

奥には水がたまっている…病院壕ということで、もっと奥があるのかと思ったが、意外にあっさりと”終点”だったかんじだ。
さて、病院壕をあとにして、海のほうに向かう。

幹線道路から奥にはいって、束里鉱山である。もし、ここから辺野古に向けて土砂が搬出されるとすると、膨大なダンプトラックが列をなして、南部の道路を通ることになる。

向こうの方に、埋め戻しに使う?謎の残土が積まれている…こうした土も辺野古に持っていくのかもしれない?

鉱山周辺の道路は、こんなかんじだが…

この道路から、荒崎海岸に出るのだ。(あの狭い道路に、糸満のバスも来る)

荒崎海岸…ここで弁当を食べる…海の右側は、東中国海、左側が太平洋である。

左側をずっと行くと、ひめゆり学徒散華の跡という碑があるのだが、戦争の犠牲を「散華」華と散る…などと称賛するのは、いかがなものだろうか?

荒崎海岸を後にして、魂魄の塔へ…



このあたりは、いろんな県の「鎮魂碑」「鎮魂塔」が建てられている…県営平和祈念公園のエリアなのだが、隣接して熊野鉱山があったりする。

飛行機の時間の都合から、私他数名がここで一行から分かれて、空港に向かう…ほかの人たちは、このままひめゆりの塔や、ひめゆり平和祈念資料館などを観ることになっている。
なかなか南部戦跡までめぐる機会はないものなのだが、いい経験であった。
それではまわ…
なおこの日の午前中は、共同代表の阿部悦子さんや、北上田顧問、湯浅顧問などといっしょに沖縄県知事と面談し、埋立承認の再撤回や土砂条例の適用、海砂採取の規制などを提案した。同様の提案を午後には県庁の部長クラスにも面談して行ったとのことである。
まず、うるま市から八重瀬町に行き、八重瀬分屯地などを見に行く。

バスの中からの撮影でわかりづらいが、四角いレーダーが見える…航空自衛隊の与座岳レーダー、通称「ガメラレーダー」と呼ばれている。電磁波の影響が心配されている。
このあたりは、琉球王朝以前、南山の有力な士族の城(グスク)があり、代々支配していたところ。また沖縄戦で守備軍が朱里を撤退してから、最後の防衛線が引かれたところでもある…まぁ要衝というわけだ。

八重瀬分屯地に到着…

ハイ、第十五高射特科連隊でありますっ!
となりは那覇ゴルフ倶楽部という、有名なゴルフ場となっている。分屯地よりもゴルフ場の方が広い。

ここももともとは米軍が接収した基地であり、敷地内には5つほど御嶽があった…それをまとめてお祀りした「八重瀬御嶽」である。ガジュマルの木が立派‼

陸自の与座南分屯地の門…ここはバスの転回ができないので、素通りする。
八重瀬のあたりの視察を終え、糸満方面へ…途中「野戦重砲兵の碑」という戦跡碑があるのだが、慰霊碑周辺の石灰岩が削られ、畑になったため、碑が宙に浮いたかっこうになっている(写真なし)土砂や砕石の採取により、慰霊塔や碑の管理、周辺の風致の維持が難しくなっているということだ。
また糸満では「名城一家全滅屋敷」というのがあり、沖縄戦で「一家全滅」した人の家屋敷が残っていたものであるが、相続で「売却」に出されたりということも起こっている。実際「売物件」というのぼりが立っていた。戦争遺構の保全も、地元自治体や沖縄県だけではなかなか難しいのである。
バスの中で、沖縄戦で使われた砲弾の破片がまわってくる…これは重たい!こんなものが飛んできて、人びとを殺していくのが戦争なのだ。

糸満の「一家全滅屋敷」にたつ「売物件」のぼりを見てから、すこし戻って陸軍病院山城本部壕跡に行く…近くにバスを止める駐車場がばいので、住宅とさとうきび畑の中を歩いて到着。

写真ではわかりにくいが、遠くに「ガメラレーダー」が見えるのだ。

碑の前で説明…もともとの自然鍾乳洞に、地元の人が避難していた。そこに1945年5月下旬、南風原から陸軍病院が撤退してきた。この場所を本部壕とし、他第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕を設けた。なお、撤退してきたときは薬品や手術道具もほとんどなく、病院としての機能は失われていたそうな。その後6月14日、本部壕付近に直撃弾が落ち、病院長が戦死…6月18日に「解散」ということになる。実質、病院関係者や負傷者は3週間ほどここにいたことになる。

入口のところ…

急な、すべりやすい洞窟をおりていく。

茶碗などのかけらが落ちている…

奥には水がたまっている…病院壕ということで、もっと奥があるのかと思ったが、意外にあっさりと”終点”だったかんじだ。
さて、病院壕をあとにして、海のほうに向かう。

幹線道路から奥にはいって、束里鉱山である。もし、ここから辺野古に向けて土砂が搬出されるとすると、膨大なダンプトラックが列をなして、南部の道路を通ることになる。

向こうの方に、埋め戻しに使う?謎の残土が積まれている…こうした土も辺野古に持っていくのかもしれない?

鉱山周辺の道路は、こんなかんじだが…

この道路から、荒崎海岸に出るのだ。(あの狭い道路に、糸満のバスも来る)

荒崎海岸…ここで弁当を食べる…海の右側は、東中国海、左側が太平洋である。

左側をずっと行くと、ひめゆり学徒散華の跡という碑があるのだが、戦争の犠牲を「散華」華と散る…などと称賛するのは、いかがなものだろうか?

荒崎海岸を後にして、魂魄の塔へ…



このあたりは、いろんな県の「鎮魂碑」「鎮魂塔」が建てられている…県営平和祈念公園のエリアなのだが、隣接して熊野鉱山があったりする。

飛行機の時間の都合から、私他数名がここで一行から分かれて、空港に向かう…ほかの人たちは、このままひめゆりの塔や、ひめゆり平和祈念資料館などを観ることになっている。
なかなか南部戦跡までめぐる機会はないものなのだが、いい経験であった。
それではまわ…