ながいことほっておいた(その5)の続き…
では、どうすればいいのか?
答えは…「ない⁉」ひぇぇ~
そう、このへんが斎藤氏の著作の弱点かもしれない…(その5)でも書いたが「国家権力奪取」の革命を否定し、「アソシエーション」の拡大・浸食によって、資本主義社会を掘り崩していこう!というのが方法らしいと書いたが…斎藤氏は重大な本から一文だけ引用している…共産主義社会とは
その際、どのように富をコモンとしてシェアするかというと、
各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!(全集第19巻21頁)
これは、マルクスが晩年の1875年に著した『ゴータ綱領批判』のなかの一節です。(p200)
そう、答えは「ゴータ綱領批判」にあるのだ!
じつは、ゴータ綱領批判、大昔に中核派が理論学習のために出した「マルクス主義基本文献学習シリーズ」の一番最初に取り上げられたものなのだ…私もこれを読んでびっくりしたものだ…

1994年6月15日第一版第一刷である。
いやぁ~せっかく「ゴータ綱領批判」から引用しているのだから、これをもっと深めてほしかったものだ。上記本からの引用(すなわち「ゴータ綱領批判」の前進社版新訳である)となるが、
しかし、このような不都合は、長い生みの苦しみののちの資本主義社会から生れ出たばかりの共産主義段階の第一段階では避けられない。(中略)共産主義社会のより高度な段階で、すなわち(中楽)そのときはじめて、狭いブルジョワ的な権利という地平は完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう書くことができる。すなわち、各人はその能力に応じて〔働き〕、その必要に応じて〔受け取る〕!
と。(p184~185)
そう、共産主義社会には、生まれたばかりの第一段階と、より高度な段階があって、「コモン」を本質的に共同で管理できるのは「高度な段階」である…とされている。では第一段階とは何か?ゴータ綱領批判ではさらに先に、こんな記述がある。
資本主義社会と共産主義社会の間には、前者から後者への革命的転嫁の時期がある。この時期にはまた、政治的な過渡期が対応しており、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。(p198)
この文章はラサールの綱領における「国家」観、すなわちラサールは既存の国家をそのまま使って「社会主義的」な政策を展開しようと「ゴータ綱領」を書いたわけだが、その国家観をマルクスが批判しているものである。しかしその中にはきちんと「革命的転嫁」という言葉と、「プロレタリア―トの革命的独裁」という言葉が書かれている。すなわちマルクスは1875年になっても「国家権力」をどないかする革命について熱く語っているのである。
どうも斎藤氏の研究では、マルクスの「国家観」「革命観」がどうなっているのか(変わったのか変わっていないのか、どう深化したのか)というところが欠けているようだ…晩期マルクスの「ノート」等には、そういった記述があまりなかったのだろうか?
「革命的転嫁」は必要だ…仮に「アソシエーション」で社会を浸食していったとしても、いずれ多くのところで資本主義的生産様式とぶつかる。資本が自らの地位を脅かすような「アソシエーション」といった輩に対し、原材料や生産手段を売ってくれない、生産物を買ってくれないなんてことは山ほど起こるだろう。それはアソシエーションにとって死活問題である…だったら、暴力的手段で資本から原材料や生産手段を奪い取り、流通をおさえなかればならない…資本主義社会で資本を守っているのは「国家」であるから、それも打倒・解体し、「アソシエーション」の力によって別のものに置き換えなければならない。
革命は必要なのだ…
だが、そこに至るまで「アソシエーション」による資本主義社会への浸食を図るつづける、そしてアソシエーションの構成員(これが古い意味での労働者階級ではない、あいたらしいプロレタリアートの概念となる)が革命の原動力とならなければならないのである…ひぇ~大変だ!
そしてアソシエーションは「プロレタリアート独裁」…すなわち、パリ・コミューンの原則で運営されなければならないし、内部における分配も含め、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るような運営をしなければならない(そうでないと、腐敗・堕落して資本主義的な、あるいは権威主義、スターリン主義的なものになってしまう)
とまぁ、斎藤氏がマルクスの「国家論」ぬきで「資本論」とマルクスを語るのであれば、それを補いながらやっていかなければならない!ということである。
では、どうすればいいのか?
答えは…「ない⁉」ひぇぇ~
そう、このへんが斎藤氏の著作の弱点かもしれない…(その5)でも書いたが「国家権力奪取」の革命を否定し、「アソシエーション」の拡大・浸食によって、資本主義社会を掘り崩していこう!というのが方法らしいと書いたが…斎藤氏は重大な本から一文だけ引用している…共産主義社会とは
その際、どのように富をコモンとしてシェアするかというと、
各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!(全集第19巻21頁)
これは、マルクスが晩年の1875年に著した『ゴータ綱領批判』のなかの一節です。(p200)
そう、答えは「ゴータ綱領批判」にあるのだ!
じつは、ゴータ綱領批判、大昔に中核派が理論学習のために出した「マルクス主義基本文献学習シリーズ」の一番最初に取り上げられたものなのだ…私もこれを読んでびっくりしたものだ…

1994年6月15日第一版第一刷である。
いやぁ~せっかく「ゴータ綱領批判」から引用しているのだから、これをもっと深めてほしかったものだ。上記本からの引用(すなわち「ゴータ綱領批判」の前進社版新訳である)となるが、
しかし、このような不都合は、長い生みの苦しみののちの資本主義社会から生れ出たばかりの共産主義段階の第一段階では避けられない。(中略)共産主義社会のより高度な段階で、すなわち(中楽)そのときはじめて、狭いブルジョワ的な権利という地平は完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう書くことができる。すなわち、各人はその能力に応じて〔働き〕、その必要に応じて〔受け取る〕!
と。(p184~185)
そう、共産主義社会には、生まれたばかりの第一段階と、より高度な段階があって、「コモン」を本質的に共同で管理できるのは「高度な段階」である…とされている。では第一段階とは何か?ゴータ綱領批判ではさらに先に、こんな記述がある。
資本主義社会と共産主義社会の間には、前者から後者への革命的転嫁の時期がある。この時期にはまた、政治的な過渡期が対応しており、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。(p198)
この文章はラサールの綱領における「国家」観、すなわちラサールは既存の国家をそのまま使って「社会主義的」な政策を展開しようと「ゴータ綱領」を書いたわけだが、その国家観をマルクスが批判しているものである。しかしその中にはきちんと「革命的転嫁」という言葉と、「プロレタリア―トの革命的独裁」という言葉が書かれている。すなわちマルクスは1875年になっても「国家権力」をどないかする革命について熱く語っているのである。
どうも斎藤氏の研究では、マルクスの「国家観」「革命観」がどうなっているのか(変わったのか変わっていないのか、どう深化したのか)というところが欠けているようだ…晩期マルクスの「ノート」等には、そういった記述があまりなかったのだろうか?
「革命的転嫁」は必要だ…仮に「アソシエーション」で社会を浸食していったとしても、いずれ多くのところで資本主義的生産様式とぶつかる。資本が自らの地位を脅かすような「アソシエーション」といった輩に対し、原材料や生産手段を売ってくれない、生産物を買ってくれないなんてことは山ほど起こるだろう。それはアソシエーションにとって死活問題である…だったら、暴力的手段で資本から原材料や生産手段を奪い取り、流通をおさえなかればならない…資本主義社会で資本を守っているのは「国家」であるから、それも打倒・解体し、「アソシエーション」の力によって別のものに置き換えなければならない。
革命は必要なのだ…
だが、そこに至るまで「アソシエーション」による資本主義社会への浸食を図るつづける、そしてアソシエーションの構成員(これが古い意味での労働者階級ではない、あいたらしいプロレタリアートの概念となる)が革命の原動力とならなければならないのである…ひぇ~大変だ!
そしてアソシエーションは「プロレタリアート独裁」…すなわち、パリ・コミューンの原則で運営されなければならないし、内部における分配も含め、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るような運営をしなければならない(そうでないと、腐敗・堕落して資本主義的な、あるいは権威主義、スターリン主義的なものになってしまう)
とまぁ、斎藤氏がマルクスの「国家論」ぬきで「資本論」とマルクスを語るのであれば、それを補いながらやっていかなければならない!ということである。