先週行って来た笹の墓標全国巡回展の記事内に
![【中古】 北海道探検記 改訂版 / 本多 勝一 / 集英社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/comicset/cabinet/05518584/bkxnexjmcwufjhcf.jpg?_ex=128x128)
【中古】 北海道探検記 改訂版 / 本多 勝一 / 集英社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
371ページに「飛行場前」の歴史 とあって、
北海道は二重の意味で近代日本の侵略の舞台だったことを、華やかな観光地の対極にあるものとして心の一隅にとどめて欲しいと思う。二重の意味の第一はもちろんアイヌ民族のモシリ(国土)だった北海道への侵略だが、第二は侵略先の中国・朝鮮からの強制連行による強制労働現場である。北海道に特に多かった鉱山や飛行場・鉄道の建設現場は、たいていがその舞台であった。北海道を知るための重要な一面として、ここに一つだけその現場を紹介すべく、私の新聞ルポから転載しよう。
とある。
ルポの始まりは「一連の教科書検定問題」という書き出しで始まる。82年に文部省(当時)が高校歴史教科書の「侵略」を「進出」と書き換えさせた問題が起こっていた当時の記事である。そこから「侵略」の結果としての「強制動員(連行)」の実態として、当時のタコ部屋労働の現場と、そこを脱走して生き延びた一在日韓国人の体験を紹介する記事が続く。
次の章「ひこうじょうまえ」駅 では、国鉄ローカル線「天北線」と浅茅野駅の南、飛行場のない「飛行場前」無人停車場の紹介の後
だが実は、かつてここに軍用飛行場が作られ、完成の直後に敗戦を迎えて放棄されたのだった。そして、その突貫工事の主要労働力として使われたのが、韓国(当時の朝鮮南部)から強制動員で連れられてきた青年たちである。囚人でもないのにカギをかけられたタコ部屋に寝起きし、ムチでなぐられながらトロッコを推し、栄養失調や集団リンチで次々と死んでゆく青年たち…
と続く。次の段落で、その現場を生き延びた青森市に住む在日韓国人、沈載明さん(五九…当時)が紹介される。
1943年5月末、大工見習としてソウルに働きに出ていた沈さんが故郷、忠清南道天安郡木川面応院里に帰っていた時、徴用されてトラックに載せられ、列車に乗って釜山から下関、青森、函館、旭川と鈍行列車で運ばれた。
オホーツク海に近い小さな駅・浅茅野に着いたのは六月一〇日の朝だった。「山本」らは護送任務だけだから、ここで工事請負土木業の「丹野組」に引き渡される。飯場まで二~三キロ歩かされ、そこで「オガワ=ゴロウ」という飯場長から飛行場建設工事での労働を始めて明らかにされた。衝撃を受けたのは、飯場に錠をおろされたときだ。新築されたばかりの飯場は、便所や食堂もろとも窓なしの壁に囲まれた刑務所のようなタコ部屋なのであった。
あくる日から、ひどい食事による長時間の過酷な労働が始まった。朝は五時起床。大根の葉などを混ぜた外米めしが中ぐらいのドンブリ一杯と、ミソ汁一杯だけの朝食。終わるとすぐ現場へ出て六時から重労働。モッコかつぎやトロッコを推すような土の運搬が主だ。午前中一回一五分の休憩。昼食には、リヤカーで運ばれた板箱の弁当を三〇分間の休み中に食べる。午後も休憩一回一五分。終わりは「暗くなるまで」だから、北国の長い昼だと労働は一三時間から一四時間におよんだ。夕食も朝と同様の少量と低カロリーである。たちまち体力は衰えてゆき、弱い者から順次栄養失調になり、病人・半病人が続出した。現場の監視人たちは暴力団出身が多く、動作の遅い者は杖をムチにしてぶんなぐる。霧雨の日がつづく作業場は、ムチの音と悲鳴と「アイゴー」の声が、遠く場外の農家にまで聞こえた。(p379~p380)
記事には飯場の見取り図も書かれており、細長いところに150人が詰め込まれ、土間にムシロを強いて寝床としていた。飯場の幹部や監視人の部屋にはタタミが敷かれていたようだ。小さな風呂も併設されていたが、疲れ果てて風呂にも入れず寝てしまうものが多かったそうである。脱走を試みる者もいたが、つかまると見せしめのヤキ入れが始まる。
ツルハシの太い柄で背中を力いっぱいぶんなぐる。一発で気絶して転倒する。水をかけてさます。地面に伏して手を合わせ、「助けて」「許して」とおがむ脱走者に、ツルハシの柄が何度でも打ちおろされる。見ていた同報らは、耐え難くなって寝床にもぐり、耳をおおった。それでも「ゴン」「ドスン」と、なぐる音や倒れる音がひびき、悲鳴が聞こえた。
こうしてヤキを入れられた者のほとんどは、そのまま発熱や下痢などを起こし、やがて死んでいった。(p381)
記事によれば、沈さんがいたような150人収容の飯場はここに七棟あり、別の場所にも飯場はあった。タコでない労働者もいて、全部で2000人ぐらいと沈さんは見ているそうだ。
四カ月ほど過ぎた秋のある日、トロッコの保線係をしていた二人が脱走した。脱走者の班長と隊長の沈さんは責任上、追跡をすることになるが、そのまま彼らも脱走することにした。その後、敗戦まで北海道を転々とする。日高の糠平鉱山で働いていたころ、平取のアイヌ家庭に暖かく迎えてくれたということもあるのだが、記事において逃亡生活について詳述する余裕はないとのことである。
記事はその後40年も経って、1982年10月3日に沈さんがかつての飛行場後を訪問したことを紹介し、
沈氏らの脱走後、冬にはいって炭鉱へまわされた同報も多かったらしい。現場に近い浜頓別町の仏教道場主・角田観山氏(七三)の調査によれば、氏名のわかる韓国人犠牲者だけでも八十余人。全体では見当もつかない。浜頓別にいた久保浅次氏(七六)は牛車で死体運びをさせられた一人である。その体験をきいた厚木市の渡辺亀二郎氏(六七)によれば、久保氏が自分で運んだ分だけでも二〇〇体くらい、全体では三~四〇〇体と推定されている。飯場長のオガワ=ゴロウは、戦後(一九五に年)旭川でトバク中の現場を警官隊に襲われ、二階から飛びおりそこなって死んだ。
強制連行された朝鮮人の数は、少ない統計でも六〇万余人、多い数字は約一二〇万人(林えいだい『強制連行・強制労働』に達する。あれから四〇年、クマザサの下に眠る犠牲者の遺骨も放置されたまま、日本の教科書検定は強制連行の歴史事実さえ薄めようとしてる。(p384~385)
このように記事は結ばれている。
さて、この記事からさらに40年の歳月が過ぎた…私たちはこの歴史の事実にどれだけ向き合ってきただろうか?
クマザサの下の遺骨は、忘れるな、そして二度と繰り返すなと訴えているのだ。
なお北海道の廃線がらみでは、天北線(89年5月廃止)に空港もないのに「飛行場前」という駅があった。これも戦時中に朝鮮人の強制労働によって突貫でつくられた「浅茅野飛行場」がそばにあるため、そのような名前になったわけである。浅茅野飛行場建設で犠牲になった方の遺骨発掘についても、本展示会で紹介されていたことも付け加えておこう。てなことを書いたが、このことを私は高校時代に本多勝一の「北海道探検記」を読んで知っていた。この度、手元にある「北海道探検記」(本多勝一 朝日新聞社 1984年 文庫)から引っ張り出して紹介しよう。なお、本書は現在、集英社文庫の中古が出回っているようだ。
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371ページに「飛行場前」の歴史 とあって、
北海道は二重の意味で近代日本の侵略の舞台だったことを、華やかな観光地の対極にあるものとして心の一隅にとどめて欲しいと思う。二重の意味の第一はもちろんアイヌ民族のモシリ(国土)だった北海道への侵略だが、第二は侵略先の中国・朝鮮からの強制連行による強制労働現場である。北海道に特に多かった鉱山や飛行場・鉄道の建設現場は、たいていがその舞台であった。北海道を知るための重要な一面として、ここに一つだけその現場を紹介すべく、私の新聞ルポから転載しよう。
とある。
ルポの始まりは「一連の教科書検定問題」という書き出しで始まる。82年に文部省(当時)が高校歴史教科書の「侵略」を「進出」と書き換えさせた問題が起こっていた当時の記事である。そこから「侵略」の結果としての「強制動員(連行)」の実態として、当時のタコ部屋労働の現場と、そこを脱走して生き延びた一在日韓国人の体験を紹介する記事が続く。
次の章「ひこうじょうまえ」駅 では、国鉄ローカル線「天北線」と浅茅野駅の南、飛行場のない「飛行場前」無人停車場の紹介の後
だが実は、かつてここに軍用飛行場が作られ、完成の直後に敗戦を迎えて放棄されたのだった。そして、その突貫工事の主要労働力として使われたのが、韓国(当時の朝鮮南部)から強制動員で連れられてきた青年たちである。囚人でもないのにカギをかけられたタコ部屋に寝起きし、ムチでなぐられながらトロッコを推し、栄養失調や集団リンチで次々と死んでゆく青年たち…
と続く。次の段落で、その現場を生き延びた青森市に住む在日韓国人、沈載明さん(五九…当時)が紹介される。
1943年5月末、大工見習としてソウルに働きに出ていた沈さんが故郷、忠清南道天安郡木川面応院里に帰っていた時、徴用されてトラックに載せられ、列車に乗って釜山から下関、青森、函館、旭川と鈍行列車で運ばれた。
オホーツク海に近い小さな駅・浅茅野に着いたのは六月一〇日の朝だった。「山本」らは護送任務だけだから、ここで工事請負土木業の「丹野組」に引き渡される。飯場まで二~三キロ歩かされ、そこで「オガワ=ゴロウ」という飯場長から飛行場建設工事での労働を始めて明らかにされた。衝撃を受けたのは、飯場に錠をおろされたときだ。新築されたばかりの飯場は、便所や食堂もろとも窓なしの壁に囲まれた刑務所のようなタコ部屋なのであった。
あくる日から、ひどい食事による長時間の過酷な労働が始まった。朝は五時起床。大根の葉などを混ぜた外米めしが中ぐらいのドンブリ一杯と、ミソ汁一杯だけの朝食。終わるとすぐ現場へ出て六時から重労働。モッコかつぎやトロッコを推すような土の運搬が主だ。午前中一回一五分の休憩。昼食には、リヤカーで運ばれた板箱の弁当を三〇分間の休み中に食べる。午後も休憩一回一五分。終わりは「暗くなるまで」だから、北国の長い昼だと労働は一三時間から一四時間におよんだ。夕食も朝と同様の少量と低カロリーである。たちまち体力は衰えてゆき、弱い者から順次栄養失調になり、病人・半病人が続出した。現場の監視人たちは暴力団出身が多く、動作の遅い者は杖をムチにしてぶんなぐる。霧雨の日がつづく作業場は、ムチの音と悲鳴と「アイゴー」の声が、遠く場外の農家にまで聞こえた。(p379~p380)
記事には飯場の見取り図も書かれており、細長いところに150人が詰め込まれ、土間にムシロを強いて寝床としていた。飯場の幹部や監視人の部屋にはタタミが敷かれていたようだ。小さな風呂も併設されていたが、疲れ果てて風呂にも入れず寝てしまうものが多かったそうである。脱走を試みる者もいたが、つかまると見せしめのヤキ入れが始まる。
ツルハシの太い柄で背中を力いっぱいぶんなぐる。一発で気絶して転倒する。水をかけてさます。地面に伏して手を合わせ、「助けて」「許して」とおがむ脱走者に、ツルハシの柄が何度でも打ちおろされる。見ていた同報らは、耐え難くなって寝床にもぐり、耳をおおった。それでも「ゴン」「ドスン」と、なぐる音や倒れる音がひびき、悲鳴が聞こえた。
こうしてヤキを入れられた者のほとんどは、そのまま発熱や下痢などを起こし、やがて死んでいった。(p381)
記事によれば、沈さんがいたような150人収容の飯場はここに七棟あり、別の場所にも飯場はあった。タコでない労働者もいて、全部で2000人ぐらいと沈さんは見ているそうだ。
四カ月ほど過ぎた秋のある日、トロッコの保線係をしていた二人が脱走した。脱走者の班長と隊長の沈さんは責任上、追跡をすることになるが、そのまま彼らも脱走することにした。その後、敗戦まで北海道を転々とする。日高の糠平鉱山で働いていたころ、平取のアイヌ家庭に暖かく迎えてくれたということもあるのだが、記事において逃亡生活について詳述する余裕はないとのことである。
記事はその後40年も経って、1982年10月3日に沈さんがかつての飛行場後を訪問したことを紹介し、
沈氏らの脱走後、冬にはいって炭鉱へまわされた同報も多かったらしい。現場に近い浜頓別町の仏教道場主・角田観山氏(七三)の調査によれば、氏名のわかる韓国人犠牲者だけでも八十余人。全体では見当もつかない。浜頓別にいた久保浅次氏(七六)は牛車で死体運びをさせられた一人である。その体験をきいた厚木市の渡辺亀二郎氏(六七)によれば、久保氏が自分で運んだ分だけでも二〇〇体くらい、全体では三~四〇〇体と推定されている。飯場長のオガワ=ゴロウは、戦後(一九五に年)旭川でトバク中の現場を警官隊に襲われ、二階から飛びおりそこなって死んだ。
強制連行された朝鮮人の数は、少ない統計でも六〇万余人、多い数字は約一二〇万人(林えいだい『強制連行・強制労働』に達する。あれから四〇年、クマザサの下に眠る犠牲者の遺骨も放置されたまま、日本の教科書検定は強制連行の歴史事実さえ薄めようとしてる。(p384~385)
このように記事は結ばれている。
さて、この記事からさらに40年の歳月が過ぎた…私たちはこの歴史の事実にどれだけ向き合ってきただろうか?
クマザサの下の遺骨は、忘れるな、そして二度と繰り返すなと訴えているのだ。