宮古島フィールドワークの続き…野原の「慰安婦祈念碑」を見た後、おそい昼食はヤギ肉が食べられるお店に…だが、食べたのは宮古そばとか(ヤギ肉は高い!)である。
そこから準天頂衛星追跡管制局を見に行く。

なんかカッコいいドームが出来ているように見えるが、近くによってみるとハリボテ感満載のレーダー?である。ちなみに「みちびき」準天頂衛星システムとは、GPSよりもより正確な、センチメートル単位の位置情報を測ることが出来る…この情報をアメリカに与えれば、米軍はより正確に巡行ミサイルを撃つことができるということ。ちなみに各地に7つある「追跡管制局」のうち、5つが琉球弧(種子島、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島)に置かれるのだ。ちなみに予算は内閣府が付けており、防衛費とは別枠である。
仕事はNECがやっているようで、見学していたら中からNECのメットを被った人が出てきた。いろいろ会話している中で「これ風で飛んでいかないの?」「風速80mまで耐えられるよう設計されております」「宮古島では昔、風速85mを観測したことがあるんだけど…」「それじゃ、飛ばされるかもしれませんね」と、なかなか技術屋さんは正直である。
準天頂衛星追跡管制局を見た後は、島の南東部、保良(ぼら)の弾薬庫や射撃訓練場を見に行く。

緑の台形の間が、弾薬庫となる…ここにミサイル弾体が貯蔵されるのだ。横の建物が、射撃訓練場である。とにかくデカい!

手前の大きな建物が、射撃訓練場…奥に小さく、保良の集落が見える…小さく見えるが、直線距離で基地から200mしか離れていないのである。
保良の弾薬庫を見た後、海上保安庁の射撃訓練場もあるので、入り口だけ見てきた。
予定では東平安名岬に行って、宮古海峡(いざ戦争となったら、ここをミサイルで”封鎖”するのだ)を見ることになっていたのだが、天気も悪く先の予定もあるので、車で島の東海岸を北上する。行き先は国立療養所宮古南静園である。「ハンセン病歴史資料館」の開館時間内に、到着しなければならない。
「南静園」の入り口から車で入ると、目の前にすごく開けた景色の良い”リゾート空間”が広がるのだが、かつてここはハンセン病患者を隔離・収用し、差別してきた重い歴史があるのだ。
「資料館」はコロナ対策のため、5人ずつまとまって入館し、案内してもらう。ここでは元患者さんが「証人」として案内している。施設にあった学校に通っていたという元患者さんから、自分に与えられていた部屋(復元)の説明を受けた。またここは戦時中、空襲にもあっており(規則正しく建物が並んでいるため、軍事施設と間違われたようだ)空襲後には職員が職場放棄して”逃亡”し、患者さん達はガマや壕の中で自活を強いられるという、大変な思いをして終戦を迎えたのだそうな。
また資料館内には、かつて存在した「監禁室」が復元されて展示されていた。”職員に反抗した””態度が悪い”などという理由で、懲罰的に患者さん達が何カ月も監禁されたりしたのである。そこは窓もなく、当然、夏でもエアコンなどはないところである。

南静園から出る前に、職員宿舎の壁に撃たれた機銃弾の跡を見る…戦争の爪痕がここにも残っている。
南静園を見学して宿舎に戻り、市街の飲食店で清水さんと交流会を行って、2日目は終了。
3日目は、伊良部島、下地島に渡り、下地島空港を見学する。

伊良部島の長山港、海保の巡視船が5隻も停泊している。宮古島における海保の拠点なのであるが、あまり建物とかはないようだ。

伊良部島の、渡口の浜…きれいな砂浜が広がっているが、いずれ米軍と自衛隊が共同で上陸訓練とかを行うのではないかと言われている。サーファーが2名程、サーフィンを楽しんでいた。

下地島は、伊良部島と狭い水道を挟んでいる。空港の管制塔が見えるが、下地島空港はこのあたり一帯の広い空域の管制業務を行っており、この管制塔は成田空港のものより能力が高いそうだ。

今のところLCCが少し利用しているだけなので、3000m級の滑走路は閑散としている。

島の北側には、滑走路の誘導灯が張り出しているのが見える。なお、下地島はかつて島を車で一周することが出来たのだが、今は途中で行きどまりとなっているそうだ。ちなみにゴロゴロしている岩は、かつての大地震の時の津波によって運ばれてきたもの。

空港を見たので、あとは”観光”

静かなダイビング・スポットでもある伊良部島の白鳥岬…ダイバーのための船が何隻も出ていたよ。

では伊良部大橋を渡って、宮古島に戻ろう…橋のたもとで案内していただいた清水さんと別れて、レンタカーを返しに空港まで行くことになった。
ではでは…
そこから準天頂衛星追跡管制局を見に行く。

なんかカッコいいドームが出来ているように見えるが、近くによってみるとハリボテ感満載のレーダー?である。ちなみに「みちびき」準天頂衛星システムとは、GPSよりもより正確な、センチメートル単位の位置情報を測ることが出来る…この情報をアメリカに与えれば、米軍はより正確に巡行ミサイルを撃つことができるということ。ちなみに各地に7つある「追跡管制局」のうち、5つが琉球弧(種子島、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島)に置かれるのだ。ちなみに予算は内閣府が付けており、防衛費とは別枠である。
仕事はNECがやっているようで、見学していたら中からNECのメットを被った人が出てきた。いろいろ会話している中で「これ風で飛んでいかないの?」「風速80mまで耐えられるよう設計されております」「宮古島では昔、風速85mを観測したことがあるんだけど…」「それじゃ、飛ばされるかもしれませんね」と、なかなか技術屋さんは正直である。
準天頂衛星追跡管制局を見た後は、島の南東部、保良(ぼら)の弾薬庫や射撃訓練場を見に行く。

緑の台形の間が、弾薬庫となる…ここにミサイル弾体が貯蔵されるのだ。横の建物が、射撃訓練場である。とにかくデカい!

手前の大きな建物が、射撃訓練場…奥に小さく、保良の集落が見える…小さく見えるが、直線距離で基地から200mしか離れていないのである。
保良の弾薬庫を見た後、海上保安庁の射撃訓練場もあるので、入り口だけ見てきた。
予定では東平安名岬に行って、宮古海峡(いざ戦争となったら、ここをミサイルで”封鎖”するのだ)を見ることになっていたのだが、天気も悪く先の予定もあるので、車で島の東海岸を北上する。行き先は国立療養所宮古南静園である。「ハンセン病歴史資料館」の開館時間内に、到着しなければならない。
「南静園」の入り口から車で入ると、目の前にすごく開けた景色の良い”リゾート空間”が広がるのだが、かつてここはハンセン病患者を隔離・収用し、差別してきた重い歴史があるのだ。
「資料館」はコロナ対策のため、5人ずつまとまって入館し、案内してもらう。ここでは元患者さんが「証人」として案内している。施設にあった学校に通っていたという元患者さんから、自分に与えられていた部屋(復元)の説明を受けた。またここは戦時中、空襲にもあっており(規則正しく建物が並んでいるため、軍事施設と間違われたようだ)空襲後には職員が職場放棄して”逃亡”し、患者さん達はガマや壕の中で自活を強いられるという、大変な思いをして終戦を迎えたのだそうな。
また資料館内には、かつて存在した「監禁室」が復元されて展示されていた。”職員に反抗した””態度が悪い”などという理由で、懲罰的に患者さん達が何カ月も監禁されたりしたのである。そこは窓もなく、当然、夏でもエアコンなどはないところである。

南静園から出る前に、職員宿舎の壁に撃たれた機銃弾の跡を見る…戦争の爪痕がここにも残っている。
南静園を見学して宿舎に戻り、市街の飲食店で清水さんと交流会を行って、2日目は終了。
3日目は、伊良部島、下地島に渡り、下地島空港を見学する。

伊良部島の長山港、海保の巡視船が5隻も停泊している。宮古島における海保の拠点なのであるが、あまり建物とかはないようだ。

伊良部島の、渡口の浜…きれいな砂浜が広がっているが、いずれ米軍と自衛隊が共同で上陸訓練とかを行うのではないかと言われている。サーファーが2名程、サーフィンを楽しんでいた。

下地島は、伊良部島と狭い水道を挟んでいる。空港の管制塔が見えるが、下地島空港はこのあたり一帯の広い空域の管制業務を行っており、この管制塔は成田空港のものより能力が高いそうだ。

今のところLCCが少し利用しているだけなので、3000m級の滑走路は閑散としている。

島の北側には、滑走路の誘導灯が張り出しているのが見える。なお、下地島はかつて島を車で一周することが出来たのだが、今は途中で行きどまりとなっているそうだ。ちなみにゴロゴロしている岩は、かつての大地震の時の津波によって運ばれてきたもの。

空港を見たので、あとは”観光”

静かなダイビング・スポットでもある伊良部島の白鳥岬…ダイバーのための船が何隻も出ていたよ。

では伊良部大橋を渡って、宮古島に戻ろう…橋のたもとで案内していただいた清水さんと別れて、レンタカーを返しに空港まで行くことになった。
ではでは…