たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

感染症と文明(その5)

 感染症専門家の「山本太郎」氏の本を、1章ごとにていねいにレビューしていく企画その5
 

第四章 生態学から見た近代医学

本章ではアフリカの植民地支配を貫徹するための帝国医療、植民地医学から始まって、近代医学が感染症を「克服」していく様子が書かれている。少し長い。

 ヨーロッパのアフリカ進出(侵略)は、新大陸へのそれと比べ一方的なものとはならなかった。探検隊や軍隊は「熱病」でバタバタと倒れる…「熱病」の正体はアフリカ土着の感染症、マラリアやアフリカ・トリパノソーマ症(眠り病)である。1830年、イギリスは下士官を除いて白人兵士を西アフリカに送るのを止めたぐらいであり、感染症がヨーロッパ人のアフリカ進出に対する生物学的障壁となっていたのである。ただマラリアに関しては、南米の先住民が伝統的に解熱剤として使用していたキナの樹皮が効くことが偶然、発見されており、1820年にはキナの樹皮からキニーネが単離され、1827年にはマラリア治療薬として商業生産が始まっている。このおかげで19世紀になってから、探検隊や侵略軍の死亡率は大きく改善されることになった。南米にマラリアはなかったのだが、ヨーロッパ人による新世界再発見(侵略)でもたらされた南米原産のキニーネが、アフリカ植民地化の後押しをすることになったということは皮肉な話であると筆者も考えている。

 サハラ砂漠とカラハリ砂漠に挟まれた地域は「ツェツェ・ベルト」と呼ばれ、アフリカ・トリパノソーマ症(眠り病)が流行してきた地域である。アフリカ眠り病はツェツェバエが媒介する病気で、病状が進行すると睡眠周期が乱れ意識レベルが低下、昏睡して死に至る。牛や馬などの家畜も感染する病気なので、ヨーロッパ人の探検や移動、植民に大きな障害となる。このアフリカ眠り病が、1800年代後半からアフリカの欧州植民地で流行を始めた。このころの研究により患者の血液から検出されたトリパノソーマが病原体ではないかと考えられた。1907年頃は、結核菌やコレラ菌を発見した、近代細菌学の祖とされるドイツのロベルト・コッホもビクトリア湖北西の島で眠り病の調査をしていたぐらいだ。(ちなみにマラリア原虫やトリパノソーマは細菌よりも大きい単細胞の「真核生物」である)

 ヨーロッパ人がアジアやアフリカの植民地を経営するためには、現地の疾病を研究し、制御する必要がある。そのための医学は後に一つの体系として「帝国医療・植民地医学」と呼ばれるようになる。そうして発展した帝国医療・植民地医学は、現地住民の健康を守ることもしたし、近代医学によって未開地の病気を征服できるという信念は、植民地主義を正当化する論拠も提供し、帝国支配を正当化するための重要な道具ともなった。一方で植民地医学は様々な病気の原因を探り、感染経路や病原体の生活環を解明し、治療法や予防法を開発することで、近代医学の発展に大きく貢献したと筆者は評している。

 1894年、イギリスの植民地で国際港湾都市の香港でペストが流行した。当時の雲南ではペストが風土病的に流行しており、1855年には大規模な軍の反乱が起こったことから、政府軍兵士が中国各地にペストを持ち帰ったのだそうな。この時、国際調査団が組織され、日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンがペスト菌を発見したことは有名である。この時に出来た国際協力体制は、香港在住ヨーロッパ人の保護と、欧米社会へのペスト移入を防ぐことが目的であったが、それは成功した。清末の1911年、満州でのペスト流行に対応し、満州進出を意図した日露政府に憂慮した清朝政府は奉天で「国際ペスト会議」を主催する。日露以外にイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、オーストリア、アメリカ、メキシコといった国が招待された。帝国主義下で、感染症とその対策が政治問題化した最初の事例であり、感染症とその対策が、近代国際政治の表舞台に登場したということである。

 「帝国主義」は欧米のみであるがペスト流行を抑え込んだ。しかし新型インフルエンザ(スペイン風邪)は押さえられなかった。

 ペスト流行に対する国際防疫体制の確立がこの時期の帝国医療・植民地医学の功績だったとすれば、1918年から19年にかけて世界的に流行した新型インフルエンザは、帝国主義が感染症流行に与えた大きな負の遺産といえるかもしれない。
 第一次世界大戦末期の1918年から19年にかけて流行したスペイン風邪は、世界全体で5000万人とも1億人ともいわれる被害をもたらした。最も大きな被害を受けた地域や国が、アフリカやインドであった。(p116117

 アフリカやインドという典型的な「植民地」で、感染症の被害が増大した。第一次世界大戦はイギリス・フランス連合軍によって、ドイツ植民地の占領が行われているが、そうした戦闘の主力を握ったのが現地の植民地軍である。アフリカ人が戦闘に参加し、その過程で食糧や労働力が強制的に移動させられている。そうした中でスペイン風邪が流行したのである。アフリカでは船舶を通して大陸沿岸部の港から港へと広がり、天然資源を求めて整備された鉄道や河川水運によって内陸部に広まったのである。
 インドで被害が大きかったのは、当時インドで飢饉が起こっていたためである。穀物生産量が五分の一に低下し、食糧価格が高騰したにもかかわらず、戦略物資としての穀物はイギリスに輸出し続けられたのである。

 こうして見てくると、第一次世界大戦は植民地を巻き込んだ総力戦だったことがわかる。アフリカにおける列強の代理戦争がインフルエンザ拡大の土壌を提供し、植民地経営の屋台骨を支えた鉄道がインフルエンザを運んだ。被害を悪化させたのは、植民地からの収奪であった。(p121

 これは今の新型コロナウィルス流行にもあてはまるだろう…グローバリズムとそれを支える旅客航空が感染を広げ、新自由主義による医療体制の脆化が、被害を悪化させている。

 第四章の後半は、そうした近代医学が感染症を抑え込んだ「歴史」が語られる。

 「感染症の教科書を閉じ、疫病に対する戦いに勝利したと宣言するときがきた」と発言したのは、当時のアメリカ公衆衛生局長官ウィリアム・スチュワート、1969年、アメリカ議会公聴会でのことであった。ペニシリンをはじめとする抗生物質が開発され、小児と家族を苦しめたポリオに対するワクチンの開発が成功し、天然痘根絶計画は達成までにあと一歩のところまで来ていた。(p124

1929年、アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見するも、しばらく忘れられる。1940年にハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンを再発見、翌年には臨床の場で有効性が確認された。1942年にはペニシリンが単離実用化され、第二次世界大戦中に多くの負傷兵、戦傷者を救うことになる。

 細菌感染症にはペニシリンのような抗生物質が効果を発揮するが、ウィルス感染症であるポリオには治療法も予防法もない。二十世紀前半、欧米諸国でポリオが流行しており、1952年にはアメリカで6万人近くが発病、3000人が死亡し、2万人を超えるひとに障害がのこる流行が起こる。1954年にジョナス・ソークが開発した不活性ポリオワクチンの大規模野外実験が始まり、1950年代後半にはアルバート・セービンによって弱毒性ワクチンが開発され、世界標準ワクチンが確立した。アメリカには自らもポリオに罹患し、後遺症を持ったフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領がよびかけた、ポリオと闘うため10セントをホワイトハウスに送る「ダイムの行進」と呼ばれる社会運動があったが、その基金はポリオワクチンの開発に大きく貢献している。

 天然痘根絶計画は、1958年にソ連代表によって提案され、WHO総会において可決されて始まった。しかし計画の進捗は遅く、1965年、アメリカ大統領リンドン・ジョンソンが計画の推進を強力に支持する声明を発表し、10年に及ぶ天然痘根絶集中計画がWHOで承認され、米ソの共同事業として行われることになる。天然痘は1972年に南米から根絶され、1975年にはインドで根絶され、残る流行地はアフリカだけとなる。ソマリア南部で自然発生による地上最後の天然痘患者が発病したのが19771026日、その後、イギリスのバーミンガムで実験室から漏れたウィルスによる感染者・死者が出たため、天然痘ウィルスの国際管理体制が確立した。1980年5月に、WHOは天然痘根絶宣言を発表している。現在、アメリカのジョージア州アトランタにあるCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の研究所と、ロシアのシベリア・コルツォボにあるロシア国立ウィルス学・生物工学研究センターに保管され、保管を続けるか破棄するかの議論が続いている。

 

感染症と文明(その4)

感染症専門家の「山本太郎」氏の本を、1章ごとにていねいにレビューしていく企画第4回目。

第三章 近代世界システムと感染症
 本章は短い…ペスト流行後にはじまった近代ヨーロッパを中心に「世界分業体制」がはじまる。その最初の段階である「大航海時代」に、新大陸から旧大陸(の中央としてのヨーロッパ世界)への収奪が行われるわけだが、そこに旧大陸から新大陸に様々な感染症が渡っている…ということが書かれている。
 筆者が仕事で滞在していたハイチ(エスパニョーラ島)は、コロンブスが最初に上陸した島だが、そこには当時、先住民のタイノ・アラクワ族約50万人が暮らしていた。そこにヨーロッパから天然痘が持ち込まれ、人口が三分の一以下にまで減少した。その後麻疹、ジフテリア、おたふく風邪が流行し、タイノ・アラクワ族は「絶滅」した。そこで始まったのが「奴隷貿易」である。西アフリカから連れて来られた奴隷は、ハイチで砂糖やコーヒー、カカオなどを生産することで、近代世界システムの中央に位置するフランスに豊かな富をもたらした。その一方で、ハイチは貧しいまま固定されたのである。そして奴隷貿易は、ハイチにマラリアや黄熱、デング熱も持ち込んだ。
 現在のハイチは、こうした数々の歴史的所産を引き継いでいる。貧困は、現在でも感染症流行の土壌を提供し続けている。エイズや結核の流行は止まることを知らない。多剤耐性結核や薬剤耐性ウイルスは大きな社会問題となっている。長く配置で結核対策に従事してきた医師で人類学者でもあるハーバード大学のポール・ファーマーは、ハイチの結核を「貧困の病」だと言う。(p80)
 
 ハイチを襲った、圧倒的に不均衡な疾病交換は新世界全体で見られた。一方的な疾病交換は、最終的に、新世界の人口を10分の一まで減少させた。その過程で、アステカやインカといった、アメリカ大陸に栄えた文明が滅亡した。(p80
 とある。アステカやインカが、スペイン人のわずかな軍勢によって攻め滅ぼされたことは有名であるが、それは“戦争”になる前に、先住民たちが感染症にやられていて、侵略者を退けることができなくなっていたのである。いわば旧大陸から渡った感染症が、新大陸の文明を滅ぼしたのだ。
 ではなぜ、新大陸に旧大陸のような感染症が無かったのか?筆者はジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」(私も読んだぞ!2012年2月草思社文庫)を読み解きながら
 新世界になく旧世界が保有した感染症の大半は、文明がどのような家畜を保有したかに左右される。現在、世界で飼育されている家畜は、羊、山羊、牛、馬、豚、ラクダ、ロバ、ラマ、ヤクなど20種類に満たない。大半は、ユーラシア大陸に起源をもつ。新世界に起源をもつものは、わずかにラマやアルパカのみである。こうした家畜はすべて、数千年から1万数千年前の文明の勃興期に飼育されはじめた。以降、人類にとって主要な家畜となった野生生物はいない。(p87)
 要するに、新世界では家畜となった動物種が少なく、そこに由来する感染症がなかったということだ。そしてなぜ新世界で家畜となる動物が少なかったのか?ということは、地域固有の生態によってそうなったということだ。あと、本書ではダイアモンドのお話がかいつまんで説明されている。
 もちろん、大西洋を渡った感染症のうち、マラリアや黄熱は家畜由来ではない。蚊によって媒介されるこれらの感染症は、人といっしょに蚊も移動したということを示している。20世紀の初頭、毎年約500万人がマラリアに感染し、約1万人が死亡している。黄熱は、北はケベックから南はリオデジャネイロまでの港町で、夏になると定期的に流行するようになったそうな。(これは私の意見だが、地球が温暖化しなくても北半球の主要都市でマラリアや黄熱等の流行は起こり得るということは覚えておいたほうが良いだろう。)
 黄熱の流行は、フランス・レセップスによるパナマ運河建設計画を挫折させ、同じく米西戦争でアメリカ兵の三分の一が黄熱で死亡したアメリカ軍がパナマ地域の黄熱撲滅に成功し、パナマ運河を開通させたことも記述している。

感染症と文明(その3)

 感染症専門家の「山本太郎」氏の本を、1章ごとにていねいにレビューしていく企画第3回目。

 
第二章 歴史の中の感染症
 本章では四大文明のうちメソポタミア、黄河、インダス(インド)文明圏における感染症と、おそらく中国発の感染症であるペスト流行と「ユーラシア世界」における変容について述べられている。
 メソポタミア文明圏における感染症流行の様子は「ギルガメッシュ叙事詩」に記されている。「大洪水よりはまし」な四つの災厄の一つとして、疫病神の到来が挙げられているが、これは麻疹や天然痘のような急性感染症が文明を周期的に襲ったことを示している。だが大洪水と同じく、急性感染症でも文明を完全に破壊することはなかった。急性感染症を有する社会では、その流行により一定程度の人口は恒常的に失われるものの、生き残った人々は免疫を獲得し、それ以降の感染を免れる。しかしその周辺の人口集団…恒常的流行のない社会…では、ひとたび感染症がその社会に持ち込まれた場合、その被害は感染症を保有する社会とは比較できないほど大きくなる。その結果
 急性感染症をもたない文明の周辺に位置する人々は、感染症をもたないことで享受する健康と人口圧力で、文明の中心地を狙う。しかしそうした周辺部の人々が、ひとたび文明中心部の人々と接触すると、文明が保有する感染症によって、人口動態に変化を及ぼすほどの影響を受ける。周辺部の集団が、新たな文明の担い手となるには、そうした、文明が保有する生物学的障壁を乗り越える必要がある。こうした両者の関係は、歴史のなかで繰り返し現れる。(p45)
 本書では具体的にどのような感染症が影響したのかは書かれてはいないが、民族の興亡が激しかったメソポタミア文明圏では、その興亡史に感染症が様々な影響をあたえていたということだろう。

 中国・黄河文明圏においては、紀元前600年頃から農耕が飛躍的な進歩を遂げたが、もう1本の大河である揚子江(長江)流域で本格的な開発が始まったのは、漢王朝の終焉後(西暦三世紀半ば)以降である。(戦国時代に長江流域は、楚という広大な国があったが、人口は少なかったのだろう)開発が遅れた理由は、風土病・住血吸虫症の存在がある。その他マラリアやデング熱などもある。(みんな大好き三国志では、曹操が南方に攻め込んだものの疫病も流行って身動きが取れない中、赤壁の戦いで大敗したのである)とはいえ黄河文明圏は揚子江流域を影響下におき、新たな感染症を自らのレパートリーに加えることになる。
 紀元前3,000年頃に成立したインダス文明においては、紀元前1500年頃アーリア民族が中央アジアから侵入してきて、紀元前八世紀ごろにはインド北西部にアーリア人による文明が成立した。同じころ、インド亜大陸東側のガンジス川流域に小都市国家が成立しはじめていた。ガンジス川流域は農耕最適地ではあるが、高温多湿の気候により感染症流行地でもあった(コレラはもともとこの地域の風土病ですね)高温多湿のガンジス川流域文明の感染症は、インダス川流域文明の住人を圧倒し、それがインド社会にカースト制度をもたらしたという研究者もいるくらいだ(もちろん反対意見もある)
 人々の交流パターンは「ランダムな交流」と「選別的交流」に分けられ、「選別的交流」はさらに「正の選別的交流」と「逆選別的交流」に分けられる。大半の社会は同じ社会人口学的属性の人々が選択的に交流する「正の選別的交流」をもつが、カーストはこの「正の選別的交流」を強化する社会制度である。感染症の数理モデルによれば、感染症が外から持ち込まれた場合、「ランダムな交流」下では初期の流行が穏やかになる一方、最終的な流行規模は大きくなる。カースト制度下のような「選別的交流」が強化された社会では、流行初期に感染はより早く拡大するが、最終的な流行規模は小さくて済むのだそうな。
 いずれにしても、インド北西部に発生した文明は、ガンジス川流域の濃厚感染地帯での「適応」に成功し、ガンジス川と同じ景観を有するプラマプトラ川やメコン川流域に進出することも出来るようになり、インドネシア諸島も含む「大インド」を形成していくことになる。
 3つの文明圏をみてみると、「感染症と文明」を巡るいくつかの基本構造が存在することに気づく。
第一 文明が「感染症のゆりかご」として機能する
第二 文明のなかで育まれた感染症は、生物学的障壁として文明を保護する
第三 文明の拡大を通して周辺の感染症を取り込み、その感染症もまたその文明を守る生物学的障壁となる
第四 疾病の存在が社会のあり方に影響を与える
 というものである。

 キリスト紀元が始まるころ、世界には中国、インド、西アジア、地中海世界という四つの文明化した疾病上在地が存在した。2010年10月31日発行の「ネイチャー・ジェネティクス」(電子版)に発表された論文に、世界各地から収集した17株のペスト菌の遺伝子配列から、ペスト菌の共通祖先が中国を紀元にもつ可能性が高く、「絹の道」(シルクロード) を通してユーラシア大陸の西側に達し、明代、鄭和の大航海(西暦1368~1644年)もペストの拡大に寄与した可能性があることが報告されている。
 絹の道が成立した2世紀にローマ帝国全域に広まった疫病は15年以上にわたり地中海世界で流行を続けた。東ローマ帝国では542年「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれるペスト流行が起こり、西暦542年から750年にかけてくり返しペストが流行した。このため東ローマ帝国は衰退し、人口も減少した。同じころ、隋末の中国でも西暦610年にペストが流行したことが記録されている。だが八世紀には地中海世界から約300年間、姿を消す。中世温暖期(西暦800~1300年)が到来したことにより、ペスト菌を保持するクマネズミの生息範囲が影響を受けたとする研究者もいる。「絹の道」によって攪乱された疫学的均衡も9世紀ごろまでには平衡状態に達したのだろう。
 だがユーラシア大陸の両端にある中国とヨーロッパで人口が急増し、モンゴル帝国支配地域においてユーラシアを横断する隊商交通網の発展も頂点を迎え、再びペストが流行することになる。中世ヨーロッパのペスト(黒死病)流行の起源についてはいくつかの説があるが、最初の発生は中央アジアであることは一致している。そこから中国に向かい、1334年には浙江流域で大流行を起こす。1347年にはコンスタンティノープルを始めとする地中海の主要都市に達し、半世紀にわたって流行した。ペスト流行によりヨーロッパでは労働力が急減して賃金が上昇し、農民が流動的になって荘園制度の崩壊が加速した。教会の権威が失われ、国家が人々の意識の中に台頭した。人材が払底し、既存の制度の中では登用されない人材が登用されるようになり、封建的身分制度が解体に向かう…ペスト流行によりヨーロッパは中世の終焉を迎えることになるわけだ。また、ペスト流行によりヨーロッパ社会の疾病構造も変わった…ハンセン病が減少し、代わりに結核患者が増加したのである。これは一方の病原体に対する暴露が、他方の病原体に対する抵抗力を与える「交叉免疫」の存在を挙げるものもいる。ペスト後は都市化が進むと、人口が密集した社会において、空気感染する結核はハンセン病より容易に感染するようになる。結核がヨーロッパで流行した原因として、気候の寒冷化による屋内居住時間の増加、毛織物供給の増大、公衆浴場の普及、栄養状態の悪化などを挙げる研究者もいるが、確かな因果関係はわからない。
 ヨーロッパにおいてペストはその後も流行をくり返したが、1720年から22年にかけてマルセイユで流行したのを最後に、西ヨーロッパではペスト流行はなくなるが、東ヨーロッパやアジアでは流行が続いた。1894年には中国の広東、香港でペスト流行が起こり、台湾、日本、ハワイ、北米に広がった。北米では1906年、大地震後のサンフランシスコで、24年にはロサンゼルスでペストの流行が見られた。この時期、ペストが北米に拡大したのは、北米における移民政策と植民地主義のもとで展開された太平洋航路の存在が挙げられる。
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
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