第四章 生態学から見た近代医学
本章ではアフリカの植民地支配を貫徹するための帝国医療、植民地医学から始まって、近代医学が感染症を「克服」していく様子が書かれている。少し長い。
ヨーロッパのアフリカ進出(侵略)は、新大陸へのそれと比べ一方的なものとはならなかった。探検隊や軍隊は「熱病」でバタバタと倒れる…「熱病」の正体はアフリカ土着の感染症、マラリアやアフリカ・トリパノソーマ症(眠り病)である。1830年、イギリスは下士官を除いて白人兵士を西アフリカに送るのを止めたぐらいであり、感染症がヨーロッパ人のアフリカ進出に対する生物学的障壁となっていたのである。ただマラリアに関しては、南米の先住民が伝統的に解熱剤として使用していたキナの樹皮が効くことが偶然、発見されており、1820年にはキナの樹皮からキニーネが単離され、1827年にはマラリア治療薬として商業生産が始まっている。このおかげで19世紀になってから、探検隊や侵略軍の死亡率は大きく改善されることになった。南米にマラリアはなかったのだが、ヨーロッパ人による新世界再発見(侵略)でもたらされた南米原産のキニーネが、アフリカ植民地化の後押しをすることになったということは皮肉な話であると筆者も考えている。
サハラ砂漠とカラハリ砂漠に挟まれた地域は「ツェツェ・ベルト」と呼ばれ、アフリカ・トリパノソーマ症(眠り病)が流行してきた地域である。アフリカ眠り病はツェツェバエが媒介する病気で、病状が進行すると睡眠周期が乱れ意識レベルが低下、昏睡して死に至る。牛や馬などの家畜も感染する病気なので、ヨーロッパ人の探検や移動、植民に大きな障害となる。このアフリカ眠り病が、1800年代後半からアフリカの欧州植民地で流行を始めた。このころの研究により患者の血液から検出されたトリパノソーマが病原体ではないかと考えられた。1907年頃は、結核菌やコレラ菌を発見した、近代細菌学の祖とされるドイツのロベルト・コッホもビクトリア湖北西の島で眠り病の調査をしていたぐらいだ。(ちなみにマラリア原虫やトリパノソーマは細菌よりも大きい単細胞の「真核生物」である)
ヨーロッパ人がアジアやアフリカの植民地を経営するためには、現地の疾病を研究し、制御する必要がある。そのための医学は後に一つの体系として「帝国医療・植民地医学」と呼ばれるようになる。そうして発展した帝国医療・植民地医学は、現地住民の健康を守ることもしたし、近代医学によって未開地の病気を征服できるという信念は、植民地主義を正当化する論拠も提供し、帝国支配を正当化するための重要な道具ともなった。一方で植民地医学は様々な病気の原因を探り、感染経路や病原体の生活環を解明し、治療法や予防法を開発することで、近代医学の発展に大きく貢献したと筆者は評している。
1894年、イギリスの植民地で国際港湾都市の香港でペストが流行した。当時の雲南ではペストが風土病的に流行しており、1855年には大規模な軍の反乱が起こったことから、政府軍兵士が中国各地にペストを持ち帰ったのだそうな。この時、国際調査団が組織され、日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンがペスト菌を発見したことは有名である。この時に出来た国際協力体制は、香港在住ヨーロッパ人の保護と、欧米社会へのペスト移入を防ぐことが目的であったが、それは成功した。清末の1911年、満州でのペスト流行に対応し、満州進出を意図した日露政府に憂慮した清朝政府は奉天で「国際ペスト会議」を主催する。日露以外にイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、オーストリア、アメリカ、メキシコといった国が招待された。帝国主義下で、感染症とその対策が政治問題化した最初の事例であり、感染症とその対策が、近代国際政治の表舞台に登場したということである。
「帝国主義」は欧米のみであるがペスト流行を抑え込んだ。しかし新型インフルエンザ(スペイン風邪)は押さえられなかった。
ペスト流行に対する国際防疫体制の確立がこの時期の帝国医療・植民地医学の功績だったとすれば、1918年から19年にかけて世界的に流行した新型インフルエンザは、帝国主義が感染症流行に与えた大きな負の遺産といえるかもしれない。
第一次世界大戦末期の1918年から19年にかけて流行したスペイン風邪は、世界全体で5000万人とも1億人ともいわれる被害をもたらした。最も大きな被害を受けた地域や国が、アフリカやインドであった。(p116~117)
アフリカやインドという典型的な「植民地」で、感染症の被害が増大した。第一次世界大戦はイギリス・フランス連合軍によって、ドイツ植民地の占領が行われているが、そうした戦闘の主力を握ったのが現地の植民地軍である。アフリカ人が戦闘に参加し、その過程で食糧や労働力が強制的に移動させられている。そうした中でスペイン風邪が流行したのである。アフリカでは船舶を通して大陸沿岸部の港から港へと広がり、天然資源を求めて整備された鉄道や河川水運によって内陸部に広まったのである。
インドで被害が大きかったのは、当時インドで飢饉が起こっていたためである。穀物生産量が五分の一に低下し、食糧価格が高騰したにもかかわらず、戦略物資としての穀物はイギリスに輸出し続けられたのである。
こうして見てくると、第一次世界大戦は植民地を巻き込んだ総力戦だったことがわかる。アフリカにおける列強の代理戦争がインフルエンザ拡大の土壌を提供し、植民地経営の屋台骨を支えた鉄道がインフルエンザを運んだ。被害を悪化させたのは、植民地からの収奪であった。(p121)
これは今の新型コロナウィルス流行にもあてはまるだろう…グローバリズムとそれを支える旅客航空が感染を広げ、新自由主義による医療体制の脆化が、被害を悪化させている。
第四章の後半は、そうした近代医学が感染症を抑え込んだ「歴史」が語られる。
「感染症の教科書を閉じ、疫病に対する戦いに勝利したと宣言するときがきた」と発言したのは、当時のアメリカ公衆衛生局長官ウィリアム・スチュワート、1969年、アメリカ議会公聴会でのことであった。ペニシリンをはじめとする抗生物質が開発され、小児と家族を苦しめたポリオに対するワクチンの開発が成功し、天然痘根絶計画は達成までにあと一歩のところまで来ていた。(p124)
1929年、アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見するも、しばらく忘れられる。1940年にハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンを再発見、翌年には臨床の場で有効性が確認された。1942年にはペニシリンが単離実用化され、第二次世界大戦中に多くの負傷兵、戦傷者を救うことになる。
細菌感染症にはペニシリンのような抗生物質が効果を発揮するが、ウィルス感染症であるポリオには治療法も予防法もない。二十世紀前半、欧米諸国でポリオが流行しており、1952年にはアメリカで6万人近くが発病、3000人が死亡し、2万人を超えるひとに障害がのこる流行が起こる。1954年にジョナス・ソークが開発した不活性ポリオワクチンの大規模野外実験が始まり、1950年代後半にはアルバート・セービンによって弱毒性ワクチンが開発され、世界標準ワクチンが確立した。アメリカには自らもポリオに罹患し、後遺症を持ったフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領がよびかけた、ポリオと闘うため10セントをホワイトハウスに送る「ダイムの行進」と呼ばれる社会運動があったが、その基金はポリオワクチンの開発に大きく貢献している。
天然痘根絶計画は、1958年にソ連代表によって提案され、WHO総会において可決されて始まった。しかし計画の進捗は遅く、1965年、アメリカ大統領リンドン・ジョンソンが計画の推進を強力に支持する声明を発表し、10年に及ぶ天然痘根絶集中計画がWHOで承認され、米ソの共同事業として行われることになる。天然痘は1972年に南米から根絶され、1975年にはインドで根絶され、残る流行地はアフリカだけとなる。ソマリア南部で自然発生による地上最後の天然痘患者が発病したのが1977年10月26日、その後、イギリスのバーミンガムで実験室から漏れたウィルスによる感染者・死者が出たため、天然痘ウィルスの国際管理体制が確立した。1980年5月に、WHOは天然痘根絶宣言を発表している。現在、アメリカのジョージア州アトランタにあるCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の研究所と、ロシアのシベリア・コルツォボにあるロシア国立ウィルス学・生物工学研究センターに保管され、保管を続けるか破棄するかの議論が続いている。
