感染症専門家の「山本太郎」氏の本を、1章ごとにていねいにレビューしていく企画その7回目…とりあえずこれでおしまい。
第6章 姿を消した感染症
第6章 姿を消した感染症
表題はつかみだけ、本章は新興の感染症も含め、感染症の“共存”戦略が語られる。
歴史を振り返れば、突然流行し、そして謎のように消えて行った感染症がある。十五世紀後半から十六世紀半ばにかけてヨーロッパ全土で流行した粟粒熱、第二次世界大戦前夜に出現し、1940年代から50年代にかけて、中欧、東欧を中心に流行した新生児致死性肺炎、1950年代後半に東アフリカ諸国で突如流行し消えたオニョンニョン熱。第二次世界大戦前後の日本で見られた「疫痢」もそうした感染症の一例かもしれない。(p160)
そして南西九州と沖縄に多く見られる(それ以外の地域にもある)成人T細胞白血病ウィルスも、姿を消そうとしているらしい。流行地である長崎県で行われた調査では、1987年に約9パーセントあった抗体保有者割合が、2005年には約1.5パーセントまで低下しており、数世代たてばほぼ消えることになるそうな。このウィルスは変異の少ないウィルスなので、人々の暮らしぶりの変化が抗体保有者割合の減少に結びついているのではないだろうか?
一方で新たに出現した感染症がある。
1976年にスーダン南部の町ヌザラおよびザイール(現コンゴ民主共和国)北部の町ヤンブクで流行したエボラ出血熱。1980年代に存在が明らかになったエイズ。2003年春から夏にかけて流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)。それ以外にも、マールブルク熱(ドイツ、1967年)、ラッサ熱(ナイジェリア、1969年)、ライム病(アメリカ、コネティカット州、1975年)、在郷軍人病(同、フィラデルフィア、1976年)などがある。(p168~169)
SARSの流行では、「超ばら撒き人(スーパースプレッダー)」なる、多数の人に病原体をばら蒔く人の存在が疑われた。ただし体質的に病原体が増殖しやすく、容易に他人に感染を起こすというより、行動範囲や交友関係が広い人がそうなるのだろう。
ネットワークの中心「ハブ」が、多数のノードと連結する特製をもつネットワークを「スケールフリー・ネットワークと呼び、現実社会の多くはスケールフリー・ネットワーで構成されている。(それに対し、ランダムなリンクで構成されるネットワークを「ランダム・ネットワーク」と呼ぶ。)スケールフリー・ネットワークは、ネットワークの全体の5パーセントが機能しなくても、代替経路の存在によってほとんど変化なく維持できるが、特定の重要なハブが障害されると、ネットワーク全体が機能不全に陥るという特徴を持っている。SARSの流行ではそのスケールフリー・ネットワークでの流行が疑われた…感染症の流行を理解するためには、人々がどのように接触し交流しているかというネットワークを知ることが重要だ。
そして筆者は、便宜的にウィルスのヒトへの適応を五段階に分けて考えてみる。
第一段階(適応準備段階:家畜や獣から直接感染するが、ヒトからヒトへの感染は見られず、単発的な発生のみで終息する。レプトスビラ症、猫引っかき病等)
第二段階(適応初期段階:ヒトからヒトへ感染するが、感染確立が低いため、流行は収束に向かう。粟粒熱やオニョンニョン病、SARS等)
第三段階(適応後期段階:ヒトへの適応を果たし、定期的な流行を引き起こす。エボラ出血熱やライム病等)
第四段階(適応段階:もはやヒトの中でしか存在できない。天然痘、麻疹、エイズ等)
第五段階(過剰適応段階:ヒトという種から消えていく。成人T細胞白血病)
ただ筆者は、第五段階まで進んだウィルスがヒトという種から消えてしまうことは、別の問題が生じると考え
ている。すなわちそのウィルスが消滅した後の生態学的地位を埋めるため、新たなウィルスが出現する可能性で
ある。成人T細胞白血病ウィルスやエイズウィルスの潜伏期が、人間の寿命なみに長くなって“共存”すること
で、新たな別のウィルスの侵入に対する防波堤になるかもしれないのである。
エピローグ 共生への道
麻疹は都市が出現し、定期的に流行するようになってから死亡率が低下した。結核も実は近代医学導入以前に死亡率は減少しはじめている。病原体の「病原性」は固定されたものではなく、社会の変化や人々の暮らしぶりによって変化する。また人々の行動が選択圧となって、病原体が「進化」することもある。
エイズウィルス(HIV)について、強毒HIV株は、高い感染力と致死性、短い潜伏期間により宿主が消耗しつくす。すなわち新たな宿主が次から次へと供給される環境でのみ生存が可能だ。感染者と非感染者の接触頻度が低下すると、強毒ウィルスは「消滅」することになり、長い目でみれば潜伏期間が長く、感染効率の低い弱毒ウィルスが優位となる。
病原体は、ある宿主から別の宿主へと感染をくり返すなかで、宿主体内の総量を徐々に高めていこうとしたに違いない。適応が不十分であるほど、ウィルスは、体内の総量を高レベルに維持し、宿主から受ける淘汰に耐えようとしたことだろう。その結果が、エイズの発症ということかもしれないという説がある。仮説に従えば、いったん適応すれば、もはや淘汰の圧力を受けることはない。宿主に病気を起こすことは自らの生存のために不利となる。そのため最終的には、ウィルスは宿主と安定した関係を築いていくことになる。(p191~192)
これが適応であり、共存ということか?しかし適応に完全なものはありえず、環境が変化すれば以前の環境への適応は、変化した環境への不適応をもたらす。ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか…
病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか?感染症の根絶は、過去に、感染症に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化する。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性がある。(p193)
同様に、感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためには、「共生」の考え方が必要になる。重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものではありえないということを理解することだろう。(p194)
病原体がいなくなる、あるいは弱毒化、無毒化する適応より、一定の「心地よいとはいえない」共生を求める。そのためにはコストもかかる。ヒトと安定した関係を結べていない病原体によって失われる生命を見すごすことは、医学に携わるものとしてできないが、その積み重ねが大惨事につながるものかもしれないということを筆者は知っている。
こうした問題に対処するための処方箋を、今の私はもっていない。しかし「共生」が、進むべき大きな道であることを確信している。だが、それによって対価を支払うことになる個人がいるとき、私たちは、この問題にどう応えていくべきか。
どちらか一方が正解だとは思えない。適応に完全なものがないように、共生もおそらくは「心地よいとはいえない」妥協の産物として、模索されなくてはならないものなのかもしれない。そして、それは、二十一世紀を生きる私たちにとっての大きな挑戦ともなるのである。(p195)
と結ばれている。随分哲学的に、結論について悩まれた様子がうかがわれる。(終了)





