先月23日に「エルおおさか」で行われた7・23いま共和制日本を考えると題する集会に参加してきた。講師の堀内哲(ほりうちさとし)さんは1970年生まれの市民運動家であり、日本における共和制の可能性を研究しているとのことである。レジュメを元に少しだけ…
 堀内氏は、1989年代替わり時の反天皇制運動は、昭和天皇の戦争責任追及に比重がかかり、憲法第一章の削除を主張する声は皆無であった。その後30年間、市民運動では天皇制の話は「自粛」されてきたが、元号問題をきっかけに2019年代替わりにおいては、9条の会や護憲運動で第一章の立憲主義的問い直しや、天皇と人権の矛盾を考える集いが各地で開催されるようになったとのこと。
 天皇制批判と共和制運動の関係は「医薬分業」に喩えると分かりやすい。天皇制批判を医者の役目=診察・診断とするなら、共和制は有効な処方箋・医薬品だ。しかし、日本の反天皇制運動や新・旧・無党派左翼は倫理的に天皇の戦争責任を追及するに留り、天皇制廃止に到る有効な新薬の投入=共和制運動を全く放棄してきた…と説く。(だから堀内氏が「共和制」の可能性を追求する運動をしているということ)

 と、まぁごちゃごちゃと続いて行くのだが、なぜ左翼(特に新左翼)が「共和制運動」なんかやらなかったのか?ということについて、堀内氏はこう展開する。
 全共闘運動(新左翼運動)は観念的なマルクス主義(一段階革命論)に固執し「ブルジョワ共和制」の意義を全く理解できなかった。いっぽう、無党派市民運動の立場で30年前から天皇制反対運動に熱心に取り組んできた人たちが、今も共和制運動に批判的なのは、無党派性運動が主張してきた「国民国家の解体」という無政府主義が共和主義の桎梏である「国民国家性」と矛盾する点が指摘される…とある。

 ここで私は堀内氏から離れ、80年代初に戻ってみる…菅孝之氏は「FOR BEGINNERS 天皇制」で次のように展開している。
 このことから我々は、安倍博純が記しているように、次のような教訓を得る。
 「…まずいえることは、天皇制が独占資本と不可分となり、独占資本主義体制の象徴となったということである。そして、ここから引き出せる結論は、天皇制廃止がもはや独立の戦術目標とはなりえないということであろう。」
 天皇制廃止の問題は、君主制か共和制かの問題ではなく、独占資本の支配か、それからの解放か、の問題にほかならない。つまりそれは、国家廃絶の問題である。そしてそのためには、国家とは何か、どのようにして国家は階級独裁の手段でありながら、手段であることをこえたようなすがたをとるのかという観点からの現代天皇制国家のしくみの解読が必要となるであろう。(p153)
 要するに天皇制は「独占資本(いまならグローバル資本主義とか)の象徴」だから、天皇制を廃止する=資本主義を打倒するプロレタリア革命 → 革命後の国家は「プロレタリア独裁国家」→国家の死滅 と動くのであって、天皇制廃止=共和制(大統領制かどうかとか)は、おハナシにもならない!と考えていたからである。(これを堀内氏は「一段階革命論」に固執と呼ぶようだ)

 では堀内氏は、資本主義社会を打倒する革命より前に、たとえばアメリカやフランスの大統領制を模した「共和制」を提起・実現しよう!と単純に呼びかけているわけではない。「一口に共和制・共和主義といっても時代や国家によって位相は違う。民衆に抑圧的に機能しない柔軟な『共和主義』の可能性もあろう」とレジュメに記載している。
 そして、今後は天皇制廃止後の具体的な社会を提示できるかが、反天皇運動を大衆化する鍵となってくると説き、来るべき「日本共和国」の原則として、現行憲法の三原則(主権在民・平和主義・基本的人権の尊重)に加え、新たに「民主共和主義」「直接民主主義」「人民社会主義」を「新三民主義」として提起したいと述べる。「直接民主主義」を掲げるということは米仏の大統領制よりもさらに民主主義的になり、「人民社会主義」を掲げるということは、(グローバル)資本の横暴を抑制し、社会主義に近づこうというものだ…後者二つを憲法に書き込もうとすると、かなり革命的なことをやらんといけないことになる。
 レジュメの最後には
※筆者の目標は「代表」のいない社会、代議員性の議会でなく人民会議や人民投票が意思決定機関。この点は代表制を否定した香港の雨傘運動やフランスの黄色いベスト運動などに学ぶ必要があろう。
※自衛隊はいったん解体して、子孫のために美田を残す国土保全のための「山村工作隊」に改組する。
※社会主義経済の導入は、スターリン主義の失敗と、手垢にまみれた走資派的な社会民主主義を乗り越え、党や組織、企業、利潤より社会的弱者や民衆を重んじる「人民社会主義」の概念化が必要だ。
 とある…

 このことから、反天皇で共和制を掲げるということは、今の資本主義社会をそのまま受け入れるということではなく、資本主義にも一定のブレーキをかける、そのためには「直接民主主義」も必要なのだ!そして、直接民主主義の対極にあるのが、身分制の頂点たる「天皇制」なのである、と考えればよいのだろう。