15日から関西の有志で企画された「宮古島フィールドワーク」に参加してきた。先月15日に行われた清水早子さん講演集会のつながりで、清水さんにミサイル基地整備が進む宮古島を案内してもらうというものだ。
2泊3日の駆け足ツアーとなったのだが、旅行会社の手違いにより15日の関西空港出発直行便に乗れず、急遽伊丹まで行って那覇経由で夕方宮古島入りとなった。従ってこの日午後の予定がパーになり、夕方に予定していた宮古島市街地、スーパー前での街宣(定例で毎週水曜日に行われている)には参加できなかった。
翌16日、朝から千代田の駐屯地前でのアピール行動に向かう。これも毎週木曜日に定例で行われている。千代田駐屯地前には「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」代表の仲里成繁さんの畑があるので、そこに車を止めて準備。
天気は悪く、雨も降って来そうなのでカッパは必需品である。
駐屯地の入り口…ちなみに大通りからは外れていて、畑の真ん中にポツンとあるような感じである。基地との境界を示すイエローラインが見える。写真に写っていないが、ひっきりなしに自衛隊車両が通行する。
こんな感じでスタンディングする。関西から立派な?横断幕も持ってきたぞ!
あいさつをする、清水早子さん。なお、駐屯地入り口には性能のいい監視カメラもついているので、座り込み・抗議行動の時は名前を呼んだりすることに注意が必要である。
同じく、仲里成繁さん。実はこの日、宮古島駐屯地司令、伊與田雅一氏に「住民軽視や敵視をやめることを再度求める要請」文を申し入れとして渡すことになっている。これまで自衛隊は駐屯地の周辺を”ジープ”を使って周回、パトロールしていたのであるが、14日に初めて「軽装甲機動車」が出てきてパトロールをした…これは戦場で使われる戦闘車両だ!自衛隊は戦闘車両の基地外での訓練は行わないと、基地建設前から地元住民に説明していたにもかかわらず、基地の外に出て住民を威嚇してきたのである。で、14日に抗議したところ、イエローラインを越えたということでパトカーまで出てきた…住民を犯罪者扱いしたのである。ということで、16日に改めてアポイントをとって要請文を渡すことになったのだ。
で、要請文を渡そうとすると、いきなり「軽装甲機動車」が出てきたのである!
スマホからの写真…ピースフラッグを持って、止めに行く。基地周辺の警備ではなく、保良の弾薬庫に行くようだ。
伊與田司令に申し入れ書を渡す…当初は二人(一人?)だけという制限をかけられていたが、横断幕を持って加勢した。
なおこの時からスコールのような激しい雨となり、カッパを着ていてもびしょ濡れとなる。デジカメもレンズが曇って写りが悪くなったため、この日はスマホの写真となる。
申し入れ行動が終わって、一旦宿舎に戻って体を乾かした後、再び千代田の駐屯地周辺を案内してもらう。
向うに見える緑色の芝生で覆われた台形の土地が、弾薬庫なんだそうな。また、千代田にあった地元にとって聖なる森が無残に削られ、小さくなった残りも見せてもらった。
続いて、野原の航空自衛隊レーダー基地である。千代田と野原は直線距離で1キロメートルも離れていない。また巨大なレーダー基地から出る電磁波はすさまじく、欧州基準の0.1µW/㎝2をはるかに上回る、200μW/㎝2が測定されたとのこと。家畜の早産、流産の被害がでているそうだ。
かなり広い範囲に、レーダー基地が広がっている。
野原付近には、先の大戦で3万人もの日本軍が米軍上陸を想定して駐屯していたそうな。米軍が上陸することはなかったが、宮古島も空襲の被害を受け、また海上封鎖されていたため食料や医薬品が不足し、日本兵も含め多くの人が餓死・病死したとのことである。
軍隊があったので、「慰安所」もあった…野原には「女たちへ」という、慰安婦問題を忘れないための記念碑が立てられている…2006年に宮古島の市議会で慰安婦問題が取り上げられた時、保守系議員が「そんなものを地方議会で取り上げるべきではない」などと反論が出たため、清水さんらも含めた有志がこの問題について取組み、話会ってお金を集め、建てたものだそうな。毎年9月に犠牲者をしのぶ集いを行っているとのこと。
碑文は犠牲者の出身地の各言語で書かれている。ベトナム戦争時に韓国軍がベトナム女性への性被害を及ぼしたこともふまえ、ベトナム語の文章もある。
もともと「アリランの碑」というのがあって、こちらのほうが名前が知られていることになっている。これは地主さんが個人的に慰安婦をしのんで建てたものらしい。
また近くには宮古島に赴任した元軍人が島での悲惨な思いを歌にしたものを記念した碑も建っているのだが、やはり保守派から「慰安婦の碑を日本兵の碑の近くに建てるのはいかがなものか?」という発言もあったらしい。しかしそれは「同じ戦争の犠牲者だから」ということで納得してもらったとのことである。
つづくよ…
2泊3日の駆け足ツアーとなったのだが、旅行会社の手違いにより15日の関西空港出発直行便に乗れず、急遽伊丹まで行って那覇経由で夕方宮古島入りとなった。従ってこの日午後の予定がパーになり、夕方に予定していた宮古島市街地、スーパー前での街宣(定例で毎週水曜日に行われている)には参加できなかった。
翌16日、朝から千代田の駐屯地前でのアピール行動に向かう。これも毎週木曜日に定例で行われている。千代田駐屯地前には「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」代表の仲里成繁さんの畑があるので、そこに車を止めて準備。
天気は悪く、雨も降って来そうなのでカッパは必需品である。
駐屯地の入り口…ちなみに大通りからは外れていて、畑の真ん中にポツンとあるような感じである。基地との境界を示すイエローラインが見える。写真に写っていないが、ひっきりなしに自衛隊車両が通行する。
こんな感じでスタンディングする。関西から立派な?横断幕も持ってきたぞ!
あいさつをする、清水早子さん。なお、駐屯地入り口には性能のいい監視カメラもついているので、座り込み・抗議行動の時は名前を呼んだりすることに注意が必要である。
同じく、仲里成繁さん。実はこの日、宮古島駐屯地司令、伊與田雅一氏に「住民軽視や敵視をやめることを再度求める要請」文を申し入れとして渡すことになっている。これまで自衛隊は駐屯地の周辺を”ジープ”を使って周回、パトロールしていたのであるが、14日に初めて「軽装甲機動車」が出てきてパトロールをした…これは戦場で使われる戦闘車両だ!自衛隊は戦闘車両の基地外での訓練は行わないと、基地建設前から地元住民に説明していたにもかかわらず、基地の外に出て住民を威嚇してきたのである。で、14日に抗議したところ、イエローラインを越えたということでパトカーまで出てきた…住民を犯罪者扱いしたのである。ということで、16日に改めてアポイントをとって要請文を渡すことになったのだ。
で、要請文を渡そうとすると、いきなり「軽装甲機動車」が出てきたのである!
スマホからの写真…ピースフラッグを持って、止めに行く。基地周辺の警備ではなく、保良の弾薬庫に行くようだ。
伊與田司令に申し入れ書を渡す…当初は二人(一人?)だけという制限をかけられていたが、横断幕を持って加勢した。
なおこの時からスコールのような激しい雨となり、カッパを着ていてもびしょ濡れとなる。デジカメもレンズが曇って写りが悪くなったため、この日はスマホの写真となる。
申し入れ行動が終わって、一旦宿舎に戻って体を乾かした後、再び千代田の駐屯地周辺を案内してもらう。
向うに見える緑色の芝生で覆われた台形の土地が、弾薬庫なんだそうな。また、千代田にあった地元にとって聖なる森が無残に削られ、小さくなった残りも見せてもらった。
続いて、野原の航空自衛隊レーダー基地である。千代田と野原は直線距離で1キロメートルも離れていない。また巨大なレーダー基地から出る電磁波はすさまじく、欧州基準の0.1µW/㎝2をはるかに上回る、200μW/㎝2が測定されたとのこと。家畜の早産、流産の被害がでているそうだ。
かなり広い範囲に、レーダー基地が広がっている。
野原付近には、先の大戦で3万人もの日本軍が米軍上陸を想定して駐屯していたそうな。米軍が上陸することはなかったが、宮古島も空襲の被害を受け、また海上封鎖されていたため食料や医薬品が不足し、日本兵も含め多くの人が餓死・病死したとのことである。
軍隊があったので、「慰安所」もあった…野原には「女たちへ」という、慰安婦問題を忘れないための記念碑が立てられている…2006年に宮古島の市議会で慰安婦問題が取り上げられた時、保守系議員が「そんなものを地方議会で取り上げるべきではない」などと反論が出たため、清水さんらも含めた有志がこの問題について取組み、話会ってお金を集め、建てたものだそうな。毎年9月に犠牲者をしのぶ集いを行っているとのこと。
碑文は犠牲者の出身地の各言語で書かれている。ベトナム戦争時に韓国軍がベトナム女性への性被害を及ぼしたこともふまえ、ベトナム語の文章もある。
もともと「アリランの碑」というのがあって、こちらのほうが名前が知られていることになっている。これは地主さんが個人的に慰安婦をしのんで建てたものらしい。
また近くには宮古島に赴任した元軍人が島での悲惨な思いを歌にしたものを記念した碑も建っているのだが、やはり保守派から「慰安婦の碑を日本兵の碑の近くに建てるのはいかがなものか?」という発言もあったらしい。しかしそれは「同じ戦争の犠牲者だから」ということで納得してもらったとのことである。
つづくよ…