たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

思想と理論

戦争をさせない!リーフレット100万部配布プロジェクト

 以下のリーフレットを配りまくろう!という企画!
100万部配布プロジェクト20240310

中国脅威論の克服に向けてー
 東アジアでの戦争を止めるために
「中国脅威論」を理由に進む日米の戦争体制
本当に「中国は攻撃して来る」のだろうか?

いま政府は「中国の脅威」を理由に、防衛のためとして、奄美・沖縄を中心に中国への軍事態勢を急ピッチで構築しています。
このことは、もし中国が攻めてくる可能性がなければ、このような軍事態勢は必要ないということを意味します。
結論を先に言えば、今の中国には日本を攻撃してくる理由は全くなく、いま、中国がそのような体制をとっているわけでもありません。
逆に、日米が中国への攻撃・戦争体制を構築しているのが現実であり、それこそが「東アジアでの戦争の危機」をつくり出しています。
なぜ、そう言えるのか、これから語っていきたいと思います。
(以下略)

 発行元は「ノーモア沖縄戦・えひめの会」である。その「えひめの会」が、この8ページのリーフレットを100万部配布しよう!という、壮大なプロジェクトなのである!
 街頭で辺野古新基地建設反対や、自衛隊のミサイル部隊配備、弾薬庫建設問題とかをアピールしている際に、必ず「中国が攻めてきたらどうするんだ!」とか言ってくる人がひとりぐらいは出てくるので、そういった人に対する簡単な理論武装もしておこう!ということにも使える。もちろん、多くの人がマスコミが流す一方的な情報を元に「軍拡や基地建設は、”中国の脅威にそなえる”ためにやむを得ない」と考えてしまっているので、それに対するカウンターをしておきましょう!ということである。
 マスコミの一方的な情報…とは、例えばリーフレット内には2021年10月初旬に、台湾の「防空識別圏」へ中国軍機が侵入してきたことがしきりに報道されていたが、実はこの時、日米英ら六か国海軍による合同軍事演習が中国の近くで行われていた。ところが日米の演習についてはほとんど報道されず、中国軍の行動のみ一方的に報道されていたのである。
 こういったことが書かれている本リーフレットを活用し、岸田政権の軍拡と戦争政策に対抗していこうではないか!
えひめの会リーフレット100万部配布20240407
戦争をさせない!
中国への戦争準備をストップ!
リーフレット100万部配布プロジェクト
協力と連帯のお願い

いま沖縄・奄美を中心に、九州、西日本、全国で着々と築かれている「中国への戦争態勢」。
攻撃用ミサイル基地や部隊の配備、空港港湾の軍事利用など、戦争準備が急ピッチで進んでいます。
しかし中国脅威論が誤りであるとわかれば、大軍拡を必要とする世論を変え、戦争をやめさせることができると私たちは考え、このリーフレットを作りました。
100万部配布を目指します。どうかご参加ください!
日米政府による戦争態勢の構築をストップさせ<平和と共生の東アジア>をともにつくって行きましょう!
―ノーモアア沖縄戦・えひめの会―

三上智恵さんの推薦文書は、省略

リーフレットは1部(A5判/カラー/8ページ)10円です。
発送希望の方は100部以上でお願いします。(送料実費)

お問い合わせ・ご注文/
電話 090₋8282₋6077(立田)、090₋3783₋8332(阿部)
メール nmo.ehime@gmail.com
(ここまで)

1部10円で100万部配布しますよ…ということだと、目標達成時には1千万円もの大金が「ノーモア沖縄戦・えひめの会」に入ることになる(リーフレットの印刷代や送料、送付のためのもろもろの手間はあなどれない)が、そのへんはおいといて…今のところ、3万部ぐらい掃いているとのこと。まだまだ目標は遠い。
 東京方面で、毎月千部を目標に駅頭で配っている人がいるとのこと…

 で、「沖縄を戦場(いくさば)にさせない実行委員会」と「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」で500部ずつ引き受けているので、おいおい撒いていく予定…というか、例えば5月3日の「憲法集会」や、6月9日の「反原発集会」で力を入れて配布すれば、2~300部ぐらいは掃けるのだが、いかんせんそのためには人手がいるのである…こうゆう集会では、他に自分とこのチラシを撒くのにせいいっぱいで、なかなか人様のチラシ・パンフを撒くのが難しいのである。
 また、なんで大阪で「えひめの会」のリーフレットを撒くの?という素朴な疑問を持つ人もいた。取扱五団体名を変えることはできないの?ということだが、著作権の問題があるので「えひめの会」を
外すわけにはいかないのだが、シール等で「取り扱い団体」名を追加することは可能…ただ、何百部もシール作って張っていく作業のほうが、めんどくさいだろう。

 とにかく、本リーフレットを活用して、岸田政権の軍拡と基地建設、戦争政策を粉砕しようではないか!

徳川幕府を倒した赤松小三郎?

 さて、「江戸の憲法構想」の中から興味深いお話を拾い出してみる…
江戸の憲法構想20240513
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
 銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
 次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)

 その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
 そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
 鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
 薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!

 とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
 薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。

倒幕の黒幕はアーネスト・サトウ

 5月6日の集会では「関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたもの」だと主張されているを書いた…そこで当日購入した「江戸の憲法構想 日本近代史の”イフ”」(作品社 2024年3月)」を読んでみると…
江戸の憲法構想20240513
 第三章が「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」となっている。
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 それによれば、「倒幕」と「王政復古」への世論形成に大きく貢献したのが、当時の在日本イギリス大使館の通訳官であったアーネスト・サトウの『英国策論』である。ところでイギリスの本国政府は、日本の内政に対して中立を維持せよと指示していた(実際、当時の列強は遠く離れた日本の内政に”介入”する余力はなかったそうである)。ところがサトウは英国公使館の一通訳官の立場ながら独断で、日本に対して「根本的な変革(radical change)を捲縮かつ真剣に提唱する」という論説記事を、横浜で発行されている英字紙「ジャパン・タイムズ」に書いたのである。ある意味、これは大変なことだ!ちなみに『英国策論』の骨子は、
 サトウの立論の大前提としてあるのは、徳川の大君とは、日本のなかで最大の領土を持つ諸侯の首席にすぎないのであって、日本全体を代表する存在ではないというものである。それゆえ、大君と結んだ通商条約は日本全体に及ばず、個々の大名領では効力を持たない。よって、新たに天皇の下で諸侯連合を組織し、「日本の連合諸大名(the Confederate Daimios of Japan)との条約をもって、現行の条約を補足するか、または、かの条約をもって現在の条約にかえるべき」というものである。条約問題を口実として、ミカドの下での諸侯連合政府への変革を促したのである。(p96)
 英国政府の公式な立場では、あくまでも条約は日本とむすんだものであるということに対し、サトウはそうではないと逸脱した論説を発表し、日本の体制変革を促しているのである。この「ジャパン・タイムズ」に掲載された論説は日本語に訳され「英国策論」として小冊子となり、印刷して「大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった」のだそうな。
 サトウの案は、あくまで徳川の権力をそいで、ミカドの下で諸侯会議の設立を促し、雄藩による連合政権を構築するというもの…江戸の憲法構想にみられるよう、国民に広く参政権をあたえようというものではない…が、これが「尊王攘夷」を掲げる人たちにはまったのであろう。また「英国策論」という邦題、書名によって、読んだ人がこれはイギリス政府の公式見解だと認識するようになったということもある。イギリスは自分たちの見方であるという認識も強まったであろう。 
 サトウは一貫して、薩長に武装蜂起を働きかけていた。1867年(慶応3年)6月、「薩土盟約」が結ばれて薩摩藩は土佐藩とともに”議会政治路線”に向かう(土佐藩、山内容堂の「大政奉還建白書」につながる路線)ことになる。サトウ翌7月の27,28日に二回も薩摩の西郷隆盛と会い、「薩土同盟」を反故にして武力討幕に踏み切るべきだと翁長がしている。「幕府はフランスと組んで薩長を滅ぼそうとしている」などのフェイク情報も並べ、西郷の危機感をあおったりもした。サトウは8月に土佐藩に赴き、山内容堂や後藤象二郎と会談、その後坂本龍馬と共に長崎に赴き、長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)と会い、武力決起を促している…いたるところで過激派「志士」たちと会い、挑発して武力討幕への決起を促して回ったのである。サトウの働きによるものかはともかく、西郷隆盛はサトウとの会談後半月後の8月4日に、長州藩と具体的な強兵計画の約定を結び、9月には薩摩藩は「薩土盟約」から離脱してしまう。

 では、なぜサトウはこれほどまで「武力決起」「武力討幕」にこだわったのか?日本で内戦が起これば、武器の売却でイギリス資本が大儲けできる、そして内戦が長引いて日本が弱体化すれば、ますますイギリスの言いなりになってくれる…ということを期待したからに他ならない。
 少し前、長州藩は「攘夷」を掲げて下関海峡で外国船を砲撃し、その報復で四か国の連合艦隊で攻め込まれ完全敗北する。この「下関戦争」の賠償金300万ドルは、本来長州藩が払うべきものだが、英国は幕府にそれを請求した。またこの戦争をきかっけに、日本の関税率を20%から5%に引き下げることに”成功”したのである。「不平等条約」の問題は、実はここから始まる…イキった連中が暴発してくれたおかげで、ここまで儲かるのだ!
 サトウは『英国策論』において、徳川大君との旧条約を破棄し、ミカドの下で諸侯連合政府と新しく条約を結びなおすと論じていた。しかるに、徳川政権との間で改税約書が結ばれるや、手のひらを返し、薩長が新政権を樹立して条約改正を要求しても、イギリスは決して交渉の席に着こうとしなかった。矛盾するようだが、イギリスの「新しい条約」とは、日本の関税自主権を剝奪すること(=関税率の引き下げと固定化)に主眼があったのだと考えれば納得できよう。徳川政権が設定した日本に有利な関税率の引き下げが達成されてしまえば、後は新政府が何を言おうが拒絶することがイギリスの国益となる。(p111)
 また下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。日英修好通商条約によれば、イギリス商人は軍用品を日本政府(徳川幕府)以外に販売してはならないはずであり、これを平然と破って秘密裏に薩摩や長州に武器を密売していたのが、グラバーである。
 長崎貿易を研究した重藤威夫によれば、「グラバーが武器の輸入について圧倒的な勢力をもっていた」。統計が残る慶応二年(一八六六)一~七月および翌三年(一八六七)に、長崎に輸入され販売された小銃は、あわせて三万三八七五挺であったが、その約四〇%にあたる一万二八二五挺はグラバー商会から購入していたという。坂本龍馬の亀山社中は、薩摩名義でグラバーから購入した小銃を、薩摩船の胡蝶丸で長州へと運んだ。坂本龍馬は、イギリスの軍事戦略の掌中で踊らされていた側面が強いのだ。戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)
 このように、内戦とその後の「維新政治」によるイギリス資本の利益のため、サトウは本国政府の方針を逸脱して独自に動いたと考えられる。

 関さんは先の講演集会で、明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得ると述べたのだが、それはこういったことなのだ。

ありえたかもしれない江戸の憲法ともうひとつの近代史【後編】

 前回の続き。
 なぜ遠山や井上らの戦後マルクス主義史学は、こうした江戸末期の憲法構想を低く評価してきたのか?それは①人間の意識は階級に規定される…徳川や諸藩から出てきた議会制度論は、封建制の再構築に過ぎない②政治や文化などの上部構造は、経済的下部構造に規定される…最先進のイギリスでさえ普通選挙はまだだった時代に、より遅れた封建制の日本が普通選挙など唱えられるわけがない③人類の歴史は階級闘争の歴史である…反政府側(薩長)の暴力は階級闘争の発現、よって反政府側は進歩的で政権(徳川)は反動的 こういった「ドグマ」に支配されていたためだと、関さんは説明された。こういうのは「勝てば官軍」史観であるが、歴史は複雑系で、そういった単純な論理では必ずしも説明できるものではないのである。
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 それにしても、なぜ「江戸の憲法」がこんなに”進歩的”であったのか?それは儒教・朱子学の影響だそうな。当時の西洋の人権観念は、諸個人の自由を侵害しないよう、国家の行為に足かせをはめるもの。人権規定は国家にマイナス行為をさせない、個人に干渉しないというのが良い政府である(アメリカのリバタリアンが典型)しかし警察力や国防力は積極的に肯定する…これはネオリベ思想になる。
 ところで朱子学ではどうとらえているのか?下川玲子「朱子学から考える権利の思想」(2017年ぺりかん社)を参照すると…
朱子学から考える権利の思想
朱子学から考える権利の思想
 そもそも朱子学では積極的に国家権力を想定していない…それはマルクス主義の理想(共産主義の高次段階)であると関さんはおっしゃったが、私はアナキズムに近いものではないかと考える。人間は本来的に善(性善説)であり、社会不安が取り除かれれば、諸個人の「天命の性」にそった善性は開花する。そのため、福祉の教育を充実させるための国家の機能は否定されない。国家にマイナス行為をさせないというだけでなく、プラス行為をさせる論理である。ちなみに儒教思想では、人間が犯罪を犯した場合でも、刑罰はすべて教育に収斂する、死刑廃止論に通じるものもあり、福祉や教育が充実していれば警察はいらないという考えにも連なる(そのわりに江戸時代には「打首獄門」などの残酷な刑罰もあったわけだが…)西洋のホッブズ的な社会契約論…「万人の万人に対する闘争」になるので、警察や軍隊などの暴力装置で社会秩序を維持、そのかわり国家は諸個人の内面の自由を侵害してはならない…から帰結する、警察や軍などの暴力が強調される「ネオリベ国家」に対する、東洋の儒教的「社会契約論」では、人間は本質的に善であるから、国家権力は不要、ただ人間が悪をなすのは貧困など善制の発現を阻害する要因があるからであり、国家は教育や社会福祉を通して、諸個人の天命の性を発揮できるようサポートするもの、「福祉国家」が対置される…ということだそうな。このへん、関さんは「異論や反発も多いでしょうが…」とおっしゃった。私も朱子学というのは「封建秩序」を維持するためのイデオロギーだと考えていたが、なるほどこうした見方もあるのかと感心した次第である。(儒教政策
下で福祉や教育が”充実しなかった”のは、生産力その他の要因もあるだろう)
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 その後、関さんは江戸を否定し西洋近代を否定した福沢諭吉と、江戸の儒教をベースに近代化を目指した渋沢栄一の違いにもふれられた。福沢は”貧民を甘やかすな”というネオリベ的近代化であり、渋沢は福祉と教育を重視する江戸的近代化を目指したということである。(一万円札の肖像が福沢から渋沢に代わるのも、なにかネオリベ政策が行き詰ってきた象徴でもある?)また、江戸時代に生まれ、儒教教育を受けた人たちが自由民権運動をやっていたという指摘もなされた。
 江戸時代からの内発的近代のシナリオを取れば、天皇は儀礼や宗教のみつかさどる象徴天皇制や、大きな福祉・教育、小さな治安維持機構をもつ国家になったであろうところを、「神道原理主義」で明治維新を行った結果、侵略主義に染まり、大きな軍隊と小さな福祉しか持たない「大日本帝国」が出来上がった…それが敗戦によって”象徴天皇制の福祉国家をGHQにより”押し付けられた”ということになる。なお関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得るということだ。日本は、江戸の儒教文化を継承した合理的、普遍的、内発的な近代化の道を歩んでいたにもかかわらず、前近代的で家父長主義的な国家神道原理主義者たちが、覇権国の軍事支援を受けて政権を奪取し、西洋列強に従属しつつ、国内では抑圧的、対アジアでは侵略主義的な「国体」を77生み出したのが「明治維新」あんおである。
 その後、休憩のあと質疑応答の時間。そしてまとめのあいさつでは、社民党の服部良一幹事長が発言され、現行憲法をないがしろにする、重要経済安保情報の保護及び活用に関する法案が審議されていることへの警鐘をならされた。

ありえたかもしれない江戸の憲法ともうひとつの近代史【前編】

 戦争あかん!ロックアクション主催の集会、明治維新の正体パートⅣ
「ありえたかもしれない江戸の憲法ともうひとつの近代史」に参加してきた。
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 司会あいさつ、新社会党で茨木市議の山下けいきさん(維新のふるさと、鹿児島出身)の主催者あいさつの後、関良基さんの講演が始まる。講演は関さんが出版された新刊「江戸の憲法構想 日本近代史のイフ」(作品社)を基にしている。
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 本の帯には前法政大学総長の田中裕子氏(こんな”腐れリベラル”から推薦もらうなよ!)の推薦のことばがあり「江戸時代からやり直さなければならない」とある…これは江戸時代に戻れではなく、江戸時代から”やり直せば”侵略戦争をするような国にはならなかったというものだそうね。
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 用意されたパワーポイントに沿って、講演は進められた。
 戦後歴史学の「定説」では、江戸時代、幕末の「公議政体論」とは、遠山茂樹氏が1,946年に著した「明治維新」(岩波新書)などに「…蘭書および中国書によって輸入され紹介された欧米の議会制度の外形だけの知識によって、…分解せんとする封建政治機構の補強救済策としての列藩会議論に定着していった。…議会制度論は、もっぱら封建的支配者間の対立を緩和し、封建支配秩序を再建する手段として、受け取られたのである」という、まぁ封建社会・封建制度の救済論であり、進歩(明治維新)に対する「反動」としてとらえられてきた。また、輸入思想・政体であり、内発的なものではないとされていたわけだ。
明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]
明治維新【電子書籍】[ 遠山茂樹 ]
 ところで、渋沢栄一は1917年「徳川義信公伝」において、横井小楠や赤松正三郎の議会政治思想を紹介している。それは決して輸入ものではなく、日本独自のものであったとして「気運の然らしむるところ、欧州思想の模倣とのみは言ふ能わざるなり」と記述しているそうだ。大正時代に、横井小楠や赤松小三郎ら”議会政治の先駆者”が知られていたにもかかわらず、戦後歴史学(マルクス主義・講座派史学)からその功績が消えていたのは、なぜなんだろう?
 それはともかく、関さんから「江戸時代(慶応)の憲法構想」として、6人が紹介される…ジョセフ・ヒコ(播磨の百姓で江戸見物からの帰りに船が遭難、アメリカ船に救出され米国で教育をうけ、帰化する。日本に帰って「海外新聞」の主筆となる…濱田彦蔵)、赤松小三郎(上田藩、薩摩藩の兵学教授)、津田真道(津山藩、開成所教授・幕臣)、西周(津和野藩、開成所教授・幕臣)松平乗謨(奥殿藩・龍岡藩、公儀陸軍総裁・老中格)山本覚馬(会津藩)である。6名とも天皇については、明治維新国家がやったような神格化、強大な権力を持たせたり、軍隊を統率させたりするのではなく「お飾り」としての機能すなわち「象徴天皇制」を掲げていた(アメリカ帰りのジョセフ・ヒコ案は、天皇についての記述なし…この人は幕藩体制の行政機構、老中とか奉行とかをそのまま、アメリカ的な政体に移行できると考えていたようだ)赤松小三郎や松平乗謨は議会の決議に天皇の拒否権を認めず、西周や山本覚馬は、天皇は歴訪や徐爵、神仏儒の長として、江戸時代と変わらぬ儀礼に特化した存在と規定していた。
 議員の選出については、庶民を入れるか(普通選挙)公家・武士階級に限定するか(制限選挙)の違いはあるものの、入札(入れ札、村落共同体で行われていた”選挙””投票”)によって選出すべきものとしている。ジョセフ・ヒコや赤松小三郎、山本覚馬は「国民の権利」を記載しており、ヒコは「自由権」を尊重する考え方…米国流で、国家に対し、個人の銃を妨げるマイナス行為をさせないというもの、赤松と山本のものは、法の下の平等の他、「人々その性に準て充分を尽くさせ候事…諸学校を増し、国中の人民を文明に育み候儀、治国の基礎」(赤松)「人を束縛せず、其所好をなし、長技を尽くさしむ可し、また従来上下隔絶の塀を止メ、貴賤混淆学術技芸を磨しめ、官二当るは貴賤等級を不論」(山本)と、諸個人の「性(個性)」や「長技(長所)」を伸ばすべく、国家は教育などによってサポートすべし、国家は人びとに対し、プラス行為を行えということが打ち出されている。これは西洋の人権観念の模倣ではなく、儒教(朱子学)的な人権論であると関さんは考えている。(儒教・朱子学の評価については後ほどもでてくる)
 6人の政治的スタンスに、政体が中央集権的か、分権・封建制的か、民衆の参政権をどれだけ認めるかに違いがあるものの、明治維新以外に、近代に向かう多様な可能性があったということを示している。逆に維新を実行した「薩長」の側から、こうした憲法構想なんかはでてきていない…彼らがいかに「天皇を国の中心においた」、神がかり的かつ強権的な政治体制を考えていたか、逆になぁ~にも考えず、権力を取ることのみに集中していたか?ということなのだろう。

 つづいて関さんはマルクス主義史家、井上清氏の「山内容堂なんかの公議政体論というのは、要するに支配者の交代段階にとどめておこうということでしょう」(『日本の歴史20巻 明治維新』(中央公論、1966年)付録での司馬遼太郎との対談)を紹介したうえで、山内容堂(土佐藩主)が徳川慶喜に示した「政権返上建白書(”大政奉還”とは「洗脳」の言葉だから使わないそうな)」に「議事院上下を分ち、議事官は上公卿より、下陪臣庶民に至るまで正明純良の士を撰挙」と書いていたことから、マルクス主義史家たちは、山内容堂の議会政治論を過小評価している…平和革命なぞまやかしで、戊辰戦争によって徳川軍を粉砕する必要があった…また封建支配階級であたっとしても、聡明な人物であれば出身階級の利害に執着せず、自分に不利な変革であっても毅然として断行できるものだと述べた。(マルクスやエンゲルスも決して「労働者階級」ではなかったからね)
 山内容堂は、津田真道をはじめ神田孝平や加藤弘之といった幕府の”御用学者”をリクルートして、こういった公議政体論をまとめていったらしい。だが、山内容堂の理想…徳川慶喜も含めた新政府構想…は1867年12月の「小御所会議」における薩長のクーデター…西郷隆盛が「短刀1本で片をつける」と恫喝した…によって葬り去られる。
 加藤弘之は翌年、「立憲政体略」というパンフレットのようなものを出した。略とあるから、憲法草案というよりアウトラインというものだが、まず「憲法」を制定して、近代化に必要な一般の法律は「みな国権の枝葉なり」とした。最初に憲法を作成しようというものだ。薩長の政府は、まず民放や刑法などを西洋から輸入してつくり、最後に憲法を制定したが、逆である…ここからも薩長が理想とする国家像や政体像は、天皇が中心であるが漠然としたものぐらいしか考えていなかったことが明らかだ。この「立憲政体略」には立憲、憲法、立法権、行政権、歳入、歳出、代議士といった、今日私たちが使っている法律・政治用語が確立されている。
 また、特筆すべきは現行憲法に定められている様々な基本的人権が、「国憲」に書き込まれるべきものとして
①「生活の権利」 生存権(現行憲法25条)
②「自信自主の権利」 正当な理由なしに逮捕・拘禁されない(34条)
③「行事自在の権利」 職業選択の自由(22条)
④「結社及び会合の権利」 集会・結社の自由(21条)
⑤「思、言、書、自在の権利」 思想・言論・出版・表現の自由(19条)
⑥「信法自在の権利」 信教の自由(20条)
⑦「万民同一の権利」 法の下の平等(14条)
⑧「各民所有の物を自在に処置する権利」 財産権(29条)
が掲げられているそうな。特に一番最初に「生存権」が掲げられていることは、当時の西洋人権思想にはないものであり、福祉国家の先駆けでもある。

 なお、このような基本的人権を掲げた憲法構想を持つ加藤弘之であったが、のちに「転向」し「キリスト教は吾が国体に甚だ害である。吾が国体が至尊として崇敬するのは皇祖皇宗と天皇のみ。この外に、唯一真理が存在するなどといった妄言は、吾が国体の決して許さぬところである」などとのたまっている。「転向」は、薩摩の”テロリスト”海江田 信義に脅されたからということだそうな。

つづくよ。
 
 
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
ではでは(^^)

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