暇な時間に図書館で「日本の歴史」第8巻「古代天皇制を考える」(2001年6月 講談社)を読んでいると、ちょっと面白い論考があった…
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
第六章「中世王権の創出と院政」上島亨 の、最後のほうである。
「中世王権」とは、律令制度で確立した古代天皇制が平安時代中期以降、変質してできあがった、日本の政治的支配の形である。古代天皇制は、中国の皇帝政にならった中央主権的な官僚機構であり、天皇はその頂点で「政治」をやっていた。従って、天皇個人に政治的な能力が必要であったのだが(子どもであるとかで能力がない場合、摂政が代行する)次第に官僚機構が政治をするようになり、天皇は祭祀の頂点に立つ、記号としての役割を果たせばよくなった。その天皇制の変質に合わせた政治形態が、藤原氏の摂関政治やその後の院政になっている。日本史ではいちおう、院政期意向を「中世」と呼び、中世における天皇制は「中世王権」と呼称されることが多い。
平安時代中期、10世紀ごろに朝廷の官位が再編され、六位以下(貴族でない人)の官人の切り捨てが始まる。下級官人の仕組みが形骸化していき、「補任(ぶにん)」の対象となる。「補任」というのは国家財政を補完するため、朝廷の造営事業などを請け負う(これを「成功(じょうごう)」という)ことが行われるが、朝廷に何らかの経費を納入した一般人が見返りに官位・位階を得ることだ。早い話が「金で官位が買える」ようになる。12世紀には「成功」が多用され「補任」された人びとは貴族の一員となる。官位のうち「従五位下(じゅごいげ)」「衛門尉(えもんのじょう)」は、ステータスシンボルとして人気があったそうな。こうった人が地域社会を支えていたので、「従五位下」「衛門尉」の呼称は地域社会の身分秩序を支える規範になる。朝廷・天皇を頂点とする官僚機構はだんだん機能を縮小し、地域の人は天皇の顔や名前なんぞ全く知らないわけであったが、地域の有力者が天皇を頂点とする身分秩序に加わり、支配階層の末端に連なることで「中世王権」が社会的に認知されたということである。これを上島亨は、以下のように書いている。
「一国平均役や一宮、荘園制を介して社会に浸透した中世王権、なかでも宗教的支配イデオロギーの核たる天皇の存在が、地方名士クラスには広範に受容されていたものと考えられる。」(p284)
こうした官位秩序が惣村の身分規範とされ、広く社会に浸透したので
「そして、その先には、近世の町人。百姓の多くが「太郎衛門」「次郎兵衛」などを名乗るという事実が位置し、遥か彼方には「ドラえもん」がいるのである。民衆一人ひとりの名前にまで官位秩序が根ざすことになる。しかも、衛門・兵衛でなければならないのは、十二世紀中葉以降、多数補任され社会的に浸透した官職だからである。
もはや、衛門・兵衛が朝廷の官職であった事実も忘れられているだろう。「ドラえもん」とて、天皇を警護する官人につながる名であることは知らないはずだ。それは、大般若経転読の場で、日々の平安を祈り手を合わせる民衆の姿と同じである。中世王権を支えるイデオロギーの一環たることは、もはや忘れ去られている。いや、中世王権自体、既に王権の座にはないのである。
中世王権そのものが役割を終えているにもかかわらず、それを支える宗教イデオロギーや規範秩序が生き続けているという現実。これは律令国家に比べると間接的で緩やかな民衆支配であったにもかかわらず、中世王権は強固な民衆的基盤を創り上げていたことを示している。道長を端緒とし、院権力のもと展開した支配秩序に、現代の我々も束縛されているといえば、いい過ぎであろうか。少なくとも、律令制に基づく法や制度が機能しなくなるなか、新たな支配秩序の構築に成功したことは間違いない。」(p285~286)
「ドラえもん」にはのび太の先祖に「のびろべえ」(兵衛?)という人が出てくる…とほうもないホラを吹き、遠方からわざわざホラを聞きにきたと人もいると言い伝えられてきた人。実際はのび太たちがタイムマシンで現代に連れてこられたため、のびろべえさんが見た現代の話を、江戸時代の人がホラだと誰も信じなかったというお話…また「ドラえもん」以前に藤子・F/不二雄さんは「21エモン」…江戸時代から続く旅館の21代目、父親は20エモンである…という作品を1968年に「少年サンデー」に連載していた。
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]
いずれにしても「ドラえもん」は中世天皇制に「屈服?」した…というより、中世、近世とづながってきた「中世王権」の名残りのネーミングであるということだ。もちろん「ドラえもん」本人は「天皇を警護する官人につながる名であることは知らない」はずだ。なぜならドラえもんがうまれる時代には、天皇制はなくなっているからね。
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
第六章「中世王権の創出と院政」上島亨 の、最後のほうである。
「中世王権」とは、律令制度で確立した古代天皇制が平安時代中期以降、変質してできあがった、日本の政治的支配の形である。古代天皇制は、中国の皇帝政にならった中央主権的な官僚機構であり、天皇はその頂点で「政治」をやっていた。従って、天皇個人に政治的な能力が必要であったのだが(子どもであるとかで能力がない場合、摂政が代行する)次第に官僚機構が政治をするようになり、天皇は祭祀の頂点に立つ、記号としての役割を果たせばよくなった。その天皇制の変質に合わせた政治形態が、藤原氏の摂関政治やその後の院政になっている。日本史ではいちおう、院政期意向を「中世」と呼び、中世における天皇制は「中世王権」と呼称されることが多い。
平安時代中期、10世紀ごろに朝廷の官位が再編され、六位以下(貴族でない人)の官人の切り捨てが始まる。下級官人の仕組みが形骸化していき、「補任(ぶにん)」の対象となる。「補任」というのは国家財政を補完するため、朝廷の造営事業などを請け負う(これを「成功(じょうごう)」という)ことが行われるが、朝廷に何らかの経費を納入した一般人が見返りに官位・位階を得ることだ。早い話が「金で官位が買える」ようになる。12世紀には「成功」が多用され「補任」された人びとは貴族の一員となる。官位のうち「従五位下(じゅごいげ)」「衛門尉(えもんのじょう)」は、ステータスシンボルとして人気があったそうな。こうった人が地域社会を支えていたので、「従五位下」「衛門尉」の呼称は地域社会の身分秩序を支える規範になる。朝廷・天皇を頂点とする官僚機構はだんだん機能を縮小し、地域の人は天皇の顔や名前なんぞ全く知らないわけであったが、地域の有力者が天皇を頂点とする身分秩序に加わり、支配階層の末端に連なることで「中世王権」が社会的に認知されたということである。これを上島亨は、以下のように書いている。
「一国平均役や一宮、荘園制を介して社会に浸透した中世王権、なかでも宗教的支配イデオロギーの核たる天皇の存在が、地方名士クラスには広範に受容されていたものと考えられる。」(p284)
こうした官位秩序が惣村の身分規範とされ、広く社会に浸透したので
「そして、その先には、近世の町人。百姓の多くが「太郎衛門」「次郎兵衛」などを名乗るという事実が位置し、遥か彼方には「ドラえもん」がいるのである。民衆一人ひとりの名前にまで官位秩序が根ざすことになる。しかも、衛門・兵衛でなければならないのは、十二世紀中葉以降、多数補任され社会的に浸透した官職だからである。
もはや、衛門・兵衛が朝廷の官職であった事実も忘れられているだろう。「ドラえもん」とて、天皇を警護する官人につながる名であることは知らないはずだ。それは、大般若経転読の場で、日々の平安を祈り手を合わせる民衆の姿と同じである。中世王権を支えるイデオロギーの一環たることは、もはや忘れ去られている。いや、中世王権自体、既に王権の座にはないのである。
中世王権そのものが役割を終えているにもかかわらず、それを支える宗教イデオロギーや規範秩序が生き続けているという現実。これは律令国家に比べると間接的で緩やかな民衆支配であったにもかかわらず、中世王権は強固な民衆的基盤を創り上げていたことを示している。道長を端緒とし、院権力のもと展開した支配秩序に、現代の我々も束縛されているといえば、いい過ぎであろうか。少なくとも、律令制に基づく法や制度が機能しなくなるなか、新たな支配秩序の構築に成功したことは間違いない。」(p285~286)
「ドラえもん」にはのび太の先祖に「のびろべえ」(兵衛?)という人が出てくる…とほうもないホラを吹き、遠方からわざわざホラを聞きにきたと人もいると言い伝えられてきた人。実際はのび太たちがタイムマシンで現代に連れてこられたため、のびろべえさんが見た現代の話を、江戸時代の人がホラだと誰も信じなかったというお話…また「ドラえもん」以前に藤子・F/不二雄さんは「21エモン」…江戸時代から続く旅館の21代目、父親は20エモンである…という作品を1968年に「少年サンデー」に連載していた。
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]
いずれにしても「ドラえもん」は中世天皇制に「屈服?」した…というより、中世、近世とづながってきた「中世王権」の名残りのネーミングであるということだ。もちろん「ドラえもん」本人は「天皇を警護する官人につながる名であることは知らない」はずだ。なぜならドラえもんがうまれる時代には、天皇制はなくなっているからね。