たたかうあるみさんのブログMKⅡ

み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ⁉ということにしておこう。

容量がいっぱいになった「たたかうあるみさんのブログ」を移動して、2020年7月に新たに開設した、共産趣味鉄道ヲタブログ⁉…旅行、萌え系ネタ⁉もあります。

読書

徳川幕府を倒した赤松小三郎?

 さて、「江戸の憲法構想」の中から興味深いお話を拾い出してみる…
江戸の憲法構想20240513
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 先日、倒幕の黒幕はアーネスト・サトウの記事で、「下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。」あるいは、「戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)」と書いた…このミニエー銃を使って、薩長の軍勢は鳥羽伏見の戦い、あるいはその後の戊辰戦争を闘って、幕府側に勝利するわけだが…では、ミニエー銃とは何か、という基礎知識はこのへんを参照してもらうこととして。勝利するためには、そのための戦術が必要だ。当時、洋式銃といえば「ゲベール銃」のことであったが、これは射程が短い…それに対し、ミニエー銃の射程は3倍以上で、命中精度も高かった。ここに登場するのが、「江戸の憲法構想」で庶民による普通選挙や人民の平等、教育の普及を訴えた赤松小三郎である。赤松は、日本で最も早くからミニエー銃とその戦闘方法・戦術の研究に取り組んできた人物なのである。1857年(安政四年)には長崎で「新銃射放論」というのを翻訳出版している。最新鋭のミニエー銃の性能や分解図等を、日本で最初に訳出した本である。
 銃身内部に施条(ライフルリング)がなく玉形弾を使うゲベール銃では、100メートル先の敵に命中させるのもおぼつかないが、ライフリングされた椎実形の弾丸を使うミニエー銃だと、300メートル先の敵にも命中させることが可能となる。赤松は、長崎でミニエー銃の性能に瞠目し、同署で、すみやかにミニエー銃の製法を習得して、配備していくべきと訴えていた。
 次に赤松が探究したのは、新銃に対応した戦闘方法である。ミニエー銃の登場によって、戦闘方法は一変した。ゲベール銃時代の戦闘方法は、歩兵の部隊が密集したまま突撃していく形態(戦列歩兵)であったが、ミニエー銃が登場すると兵を分散させる散開戦術へと進化していくことになった。火力が増大したために、密集した隊形のままでは、集中砲火を受けると壊滅的打撃を受けることになったためである。そこで、少人数ずつの散開しながら射撃を行う必要性が発生した。赤松小三郎はいち早く、ライフル銃に対応したイギリス式の散開戦術を身に着けた人物となった。(p113~115)

 その後赤松は1865年、横浜に駐留していたイギリス陸軍のヴィンセント・アブリン大尉から英語の指導を受けながら、金沢藩士の浅津富之助と分担して「英国歩兵錬法」を訳出した。この本はイギリス陸軍が1862年に採用した教本であり、前装式ライフル銃に対応した最新式の散開戦術が盛り込まれていたものである。この訳本によって赤松の名が知られることになり、薩摩藩に軍事教官として招請されることになる。
 そう、赤松が最新のライフル銃を用いた散開戦術を、薩摩藩兵に教えたのである。
 鳥羽伏見の戦いの緒戦で、鳥羽街道を密集して北上する徳川軍に対して、散開しながら先生の波状攻撃を加え、徳川方に死屍累々の大損害を与えたのが、野津鎮雄の率いる薩摩の小銃五番隊であった。この野津鎮雄こそ、赤松小三郎の薩摩宿の塾頭を務めた人物である。このとき薩摩軍は、戦闘の合図に喇叭を用いていたことが記録されている。散開戦術では、分散して戦闘する各隊に瞬時に命令を伝達するために、喇叭信号が重要になったが、喇叭を薩摩軍に導入したのも赤松小三郎であったのだ。(p116)
 薩摩における赤松の”弟子”としてほかに、野津道貫、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞など、母神戦争を戦い明治の陸海軍を率いたメンバーがいるわけだ…ということは、徳川幕府を倒したのは、実は赤松小三郎であったといっても、過言ではない!

 とはいえ赤松は薩摩の「武力討幕」路線に組したわけではない…むしろ内戦の危機を回避するため、自らの憲法草案ともいえる建白書を起草し、越前・薩摩・徳川などの各法眼にに提出している。また薩摩藩内で西郷隆盛や小松帯刀などを説得し「薩土盟約」による平和的な政権返上路線を目指していたのだが、薩摩藩が「武力討幕」路線に転換して「薩と盟約」も反故になった結果、赤松は中村半次郎ら五名の刺客団によって暗殺されてしまう。「江戸の憲法構想」の著者、関良基氏は
 薩摩から赤松の政治思想は消えて、赤松の軍事技術のみが残されることになった。それが、鳥羽伏見の戦いの帰趨にも決定的な影響も与えてしまったのだ。歴史とは残酷なものである。(p117)
と書いている。

倒幕の黒幕はアーネスト・サトウ

 5月6日の集会では「関さんは明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたもの」だと主張されているを書いた…そこで当日購入した「江戸の憲法構想 日本近代史の”イフ”」(作品社 2024年3月)」を読んでみると…
江戸の憲法構想20240513
 第三章が「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」となっている。
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
江戸の憲法構想 日本近代史の“イフ” [ 関 良基 ]
 それによれば、「倒幕」と「王政復古」への世論形成に大きく貢献したのが、当時の在日本イギリス大使館の通訳官であったアーネスト・サトウの『英国策論』である。ところでイギリスの本国政府は、日本の内政に対して中立を維持せよと指示していた(実際、当時の列強は遠く離れた日本の内政に”介入”する余力はなかったそうである)。ところがサトウは英国公使館の一通訳官の立場ながら独断で、日本に対して「根本的な変革(radical change)を捲縮かつ真剣に提唱する」という論説記事を、横浜で発行されている英字紙「ジャパン・タイムズ」に書いたのである。ある意味、これは大変なことだ!ちなみに『英国策論』の骨子は、
 サトウの立論の大前提としてあるのは、徳川の大君とは、日本のなかで最大の領土を持つ諸侯の首席にすぎないのであって、日本全体を代表する存在ではないというものである。それゆえ、大君と結んだ通商条約は日本全体に及ばず、個々の大名領では効力を持たない。よって、新たに天皇の下で諸侯連合を組織し、「日本の連合諸大名(the Confederate Daimios of Japan)との条約をもって、現行の条約を補足するか、または、かの条約をもって現在の条約にかえるべき」というものである。条約問題を口実として、ミカドの下での諸侯連合政府への変革を促したのである。(p96)
 英国政府の公式な立場では、あくまでも条約は日本とむすんだものであるということに対し、サトウはそうではないと逸脱した論説を発表し、日本の体制変革を促しているのである。この「ジャパン・タイムズ」に掲載された論説は日本語に訳され「英国策論」として小冊子となり、印刷して「大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった」のだそうな。
 サトウの案は、あくまで徳川の権力をそいで、ミカドの下で諸侯会議の設立を促し、雄藩による連合政権を構築するというもの…江戸の憲法構想にみられるよう、国民に広く参政権をあたえようというものではない…が、これが「尊王攘夷」を掲げる人たちにはまったのであろう。また「英国策論」という邦題、書名によって、読んだ人がこれはイギリス政府の公式見解だと認識するようになったということもある。イギリスは自分たちの見方であるという認識も強まったであろう。 
 サトウは一貫して、薩長に武装蜂起を働きかけていた。1867年(慶応3年)6月、「薩土盟約」が結ばれて薩摩藩は土佐藩とともに”議会政治路線”に向かう(土佐藩、山内容堂の「大政奉還建白書」につながる路線)ことになる。サトウ翌7月の27,28日に二回も薩摩の西郷隆盛と会い、「薩土同盟」を反故にして武力討幕に踏み切るべきだと翁長がしている。「幕府はフランスと組んで薩長を滅ぼそうとしている」などのフェイク情報も並べ、西郷の危機感をあおったりもした。サトウは8月に土佐藩に赴き、山内容堂や後藤象二郎と会談、その後坂本龍馬と共に長崎に赴き、長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)と会い、武力決起を促している…いたるところで過激派「志士」たちと会い、挑発して武力討幕への決起を促して回ったのである。サトウの働きによるものかはともかく、西郷隆盛はサトウとの会談後半月後の8月4日に、長州藩と具体的な強兵計画の約定を結び、9月には薩摩藩は「薩土盟約」から離脱してしまう。

 では、なぜサトウはこれほどまで「武力決起」「武力討幕」にこだわったのか?日本で内戦が起これば、武器の売却でイギリス資本が大儲けできる、そして内戦が長引いて日本が弱体化すれば、ますますイギリスの言いなりになってくれる…ということを期待したからに他ならない。
 少し前、長州藩は「攘夷」を掲げて下関海峡で外国船を砲撃し、その報復で四か国の連合艦隊で攻め込まれ完全敗北する。この「下関戦争」の賠償金300万ドルは、本来長州藩が払うべきものだが、英国は幕府にそれを請求した。またこの戦争をきかっけに、日本の関税率を20%から5%に引き下げることに”成功”したのである。「不平等条約」の問題は、実はここから始まる…イキった連中が暴発してくれたおかげで、ここまで儲かるのだ!
 サトウは『英国策論』において、徳川大君との旧条約を破棄し、ミカドの下で諸侯連合政府と新しく条約を結びなおすと論じていた。しかるに、徳川政権との間で改税約書が結ばれるや、手のひらを返し、薩長が新政権を樹立して条約改正を要求しても、イギリスは決して交渉の席に着こうとしなかった。矛盾するようだが、イギリスの「新しい条約」とは、日本の関税自主権を剝奪すること(=関税率の引き下げと固定化)に主眼があったのだと考えれば納得できよう。徳川政権が設定した日本に有利な関税率の引き下げが達成されてしまえば、後は新政府が何を言おうが拒絶することがイギリスの国益となる。(p111)
 また下関戦争から1年後の1965年9月、長州藩の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は長崎でグラバー商会から4,300挺のミニエー銃を購入した。日英修好通商条約によれば、イギリス商人は軍用品を日本政府(徳川幕府)以外に販売してはならないはずであり、これを平然と破って秘密裏に薩摩や長州に武器を密売していたのが、グラバーである。
 長崎貿易を研究した重藤威夫によれば、「グラバーが武器の輸入について圧倒的な勢力をもっていた」。統計が残る慶応二年(一八六六)一~七月および翌三年(一八六七)に、長崎に輸入され販売された小銃は、あわせて三万三八七五挺であったが、その約四〇%にあたる一万二八二五挺はグラバー商会から購入していたという。坂本龍馬の亀山社中は、薩摩名義でグラバーから購入した小銃を、薩摩船の胡蝶丸で長州へと運んだ。坂本龍馬は、イギリスの軍事戦略の掌中で踊らされていた側面が強いのだ。戊辰戦争が勃発した慶応四年/明治元年(一八六八)になると、薩摩藩は長崎にあるミニエー銃のすべてを、グラバー商会を通じて買い占めた。(p112)
 このように、内戦とその後の「維新政治」によるイギリス資本の利益のため、サトウは本国政府の方針を逸脱して独自に動いたと考えられる。

 関さんは先の講演集会で、明治維新、武力討幕は、アーネスト・サトウやグラバーらイギリス勢力の干渉(薩摩への武器供与など)によって起こされたものだとしており、そういったことは以前の講演で述べているとのことである。覇権国の軍事介入があれば、前近代は近代に勝利し得ると述べたのだが、それはこういったことなのだ。

中世天皇制に屈服したドラえもん

 暇な時間に図書館で「日本の歴史」第8巻「古代天皇制を考える」(2001年6月 講談社)を読んでいると、ちょっと面白い論考があった…
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
古代天皇制を考える 日本の歴史08 (講談社学術文庫) [ 大津 透 ]
 第六章「中世王権の創出と院政」上島亨 の、最後のほうである。
 「中世王権」とは、律令制度で確立した古代天皇制が平安時代中期以降、変質してできあがった、日本の政治的支配の形である。古代天皇制は、中国の皇帝政にならった中央主権的な官僚機構であり、天皇はその頂点で「政治」をやっていた。従って、天皇個人に政治的な能力が必要であったのだが(子どもであるとかで能力がない場合、摂政が代行する)次第に官僚機構が政治をするようになり、天皇は祭祀の頂点に立つ、記号としての役割を果たせばよくなった。その天皇制の変質に合わせた政治形態が、藤原氏の摂関政治やその後の院政になっている。日本史ではいちおう、院政期意向を「中世」と呼び、中世における天皇制は「中世王権」と呼称されることが多い。
 平安時代中期、10世紀ごろに朝廷の官位が再編され、六位以下(貴族でない人)の官人の切り捨てが始まる。下級官人の仕組みが形骸化していき、「補任(ぶにん)」の対象となる。「補任」というのは国家財政を補完するため、朝廷の造営事業などを請け負う(これを「成功(じょうごう)」という)ことが行われるが、朝廷に何らかの経費を納入した一般人が見返りに官位・位階を得ることだ。早い話が「金で官位が買える」ようになる。12世紀には「成功」が多用され「補任」された人びとは貴族の一員となる。官位のうち「従五位下(じゅごいげ)」「衛門尉(えもんのじょう)」は、ステータスシンボルとして人気があったそうな。こうった人が地域社会を支えていたので、「従五位下」「衛門尉」の呼称は地域社会の身分秩序を支える規範になる。朝廷・天皇を頂点とする官僚機構はだんだん機能を縮小し、地域の人は天皇の顔や名前なんぞ全く知らないわけであったが、地域の有力者が天皇を頂点とする身分秩序に加わり、支配階層の末端に連なることで「中世王権」が社会的に認知されたということである。これを上島亨は、以下のように書いている。
一国平均役や一宮、荘園制を介して社会に浸透した中世王権、なかでも宗教的支配イデオロギーの核たる天皇の存在が、地方名士クラスには広範に受容されていたものと考えられる。」(p284)
 
こうした官位秩序が惣村の身分規範とされ、広く社会に浸透したので
「そして、その先には、近世の町人。百姓の多くが「太郎衛門」「次郎兵衛」などを名乗るという事実が位置し、遥か彼方には「ドラえもん」がいるのである。民衆一人ひとりの名前にまで官位秩序が根ざすことになる。しかも、衛門・兵衛でなければならないのは、十二世紀中葉以降、多数補任され社会的に浸透した官職だからである。
 もはや、衛門・兵衛が朝廷の官職であった事実も忘れられているだろう。「ドラえもん」とて、天皇を警護する官人につながる名であることは知らないはずだ。それは、大般若経転読の場で、日々の平安を祈り手を合わせる民衆の姿と同じである。中世王権を支えるイデオロギーの一環たることは、もはや忘れ去られている。いや、中世王権自体、既に王権の座にはないのである。
 中世王権そのものが役割を終えているにもかかわらず、それを支える宗教イデオロギーや規範秩序が生き続けているという現実。これは律令国家に比べると間接的で緩やかな民衆支配であったにもかかわらず、中世王権は強固な民衆的基盤を創り上げていたことを示している。道長を端緒とし、院権力のもと展開した支配秩序に、現代の我々も束縛されているといえば、いい過ぎであろうか。少なくとも、律令制に基づく法や制度が機能しなくなるなか、新たな支配秩序の構築に成功したことは間違いない。」(p285~286)

 「ドラえもん」にはのび太の先祖に「のびろべえ」(兵衛?)という人が出てくる…とほうもないホラを吹き、遠方からわざわざホラを聞きにきたと人もいると言い伝えられてきた人。実際はのび太たちがタイムマシンで現代に連れてこられたため、のびろべえさんが見た現代の話を、江戸時代の人がホラだと誰も信じなかったというお話…また「ドラえもん」以前に藤子・F/不二雄さんは「21エモン」…江戸時代から続く旅館の21代目、父親は20エモンである…という作品を1968年に「少年サンデー」に連載していた。
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]
藤子・F・不二雄大全集 21エモン (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]

いずれにしても「ドラえもん」は中世天皇制に「屈服?」した…というより、中世、近世とづながってきた「中世王権」の名残りのネーミングであるということだ。もちろん「ドラえもん」本人は「天皇を警護する官人につながる名であることは知らない」はずだ。なぜならドラえもんがうまれる時代には、天皇制はなくなっているからね。

ガザとは何か(後編)

 昨日の続き
 岡真理さんは「ガザとは何か」という問いに、こう答える…
 「ガザ、それは巨大な実験場です」
 イスラエルの最新兵器を実験する、世界のニュースがそれを放映してくれる。古い兵器の在庫も一掃できる…そして「百万人以上の難民たちを閉じ込めて、五十ね以上も占領下に置き、さらに十六年以上完全封鎖して、食料も水も医薬品も、辛うじて生きるのに精一杯という程度しか与えないでいたら、人間はどうなるか、その社会はどうなるか、何が起こるのか、という実験です」(p136)
 産業基盤が破壊され失業率は50パーセント近く、50パーセント以上が貧困ライン以下の生活を強いられ、三割の家庭が子どもの教育費を賄えない。八割の世帯が食料援助に頼らざるを得ない…炭水化物や油を大量に摂ることになるので、糖尿病が風土病になる。自殺が禁忌とされるイスラームの世界であっても、自ら命を絶つ人が後を絶たない。下水処理施設が使えないため、生活排水がそのまま川に流され、地中海に流れ込む。飲み水の97パーセントが飲料に適していないのに、飲まざるを得ない。海が汚染されているので、ビーチは遊泳禁止になっているが、夏、電気がなくてエアコンも扇風機も使えないので、海で涼むしかない。
「ガザは実験場です。
 「2007年当時で百五十万人以上の人間を狭い場所に閉じ込めて、経済基盤を破壊して、ライフラインは最低限しか供給せず。命をつなぐのがやっとという状況にとどめておいて、何年かに一度大規模に殺戮し、社会インフラを破壊し、そういうことを十六年間続けた時、世界はこれに対してどうするのかという実験です。
 そして、分かったことー世界は何もしない。」(p142)
「いずれにせよ、停戦になったら、すぐ忘れられてしまうのです。」(p143)

ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義 [ 岡 真理 ]
ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義 [ 岡 真理 ]
 ここまで書けば「つまり、問題の背景には、西岸とガザに限っても、六十年近いイスラエルによる占領がある。パレスチナ人に対する法外な占領の暴力がある。」(p160)その「実験の結果」が、昨年十月七日の攻撃なのだ!
 ことわっておくが、今回の攻撃は「ハマースによる攻撃」ではなく、「ハマース主導の戦闘員たち」による攻撃である。ハマースに主導された、イスラーム聖戦やPFLPなど、パレスチナ解放を掲げる複数の、民兵組織、パレスチナ解放を目指す人民が参加した解放のための作戦だったのである。
「日本のメディアではほとんど報道されていませんが、まず、彼らはガザ周辺にある十二のイスラエルの軍事基地を占拠しました。そこにいたイスラエル兵を捕虜にして、その後、イスラエル軍との交戦になり、基地にいた戦闘員たちは全員殺されたのだと思います。このことにはほとんど触れられず、キブツと野外音楽祭が襲撃され、そこで民間人が殺されたことばかりが強調されて、報道されているように思います。
 占領下にある者たちが、占領からの解放のために、占領軍に対して武力を用いて抵抗することは、国際法上、正当な抵抗権の行使です。しかし、この時には守るべきルールがあります。民間に対する攻撃や、民間人を人質に取ることは、国際人道法違反であり、戦争犯罪です。占領からの解放を目指す武装抵抗が正当なものであるとしても、戦争犯罪に当たるこうした行為は許されるべきものではありません。国際法に則って、戦争犯罪としてきちんと裁かれるべきことです。だからといって、占領下のパレスチナ人が、イスラエルによる占領からの解放を求めて戦うということ、それ自体が違法化されるわけではありません。」(p160~161)

 そう、戦争犯罪は裁かれなければならない…では、イスラエルの行ってきた戦争犯罪や、国連決議違反、人道にもとる数々の行為は、これまで裁かれてきたのか?誰か責任者が責任をとったのか?
 そして、10月7日以降「ハマースとは何か」と問われることに対し、むしろ問うべきは「イスラエルとは何か」である、どのように建国されたのか、何をしてきて、何を行っているのか…それがこの問題の根本なのである。(「イスラエルとは何か」というのが、本記事の前編である)またイスラエルは「アパルトヘイト国家」でもある。これはパレスチナにかかわる人権団体や国連の専門家が常々主張していることであり、「ユダヤ人至上主義」を掲げ常にパレスチナ人に対する差別・抑圧を国家として続けているということだ。南アフリカでかつてアパルトヘイトと闘っていたANC(アフリカ民族会議)が「テロ組織」とされ、ネルソン・マンデラも「テロリスト」とされていたように、イスラエルはパレスチナにある六つの字k年団体を「テロ組織」として認定している。
 そして岡真理さんは「もう一つ強調したいのは、パレスチナ問題の根源にある、イスラエルによる占領、封鎖、アパルトヘイト、そして、難民の帰還ーこれらはすべて、「政治的な問題」だということです。
 植民地支配されている国の独立が、政治的な解決を必要とする政治的問題であるのと同じく、パレスチナ問題は政治的な問題です。しかし、イスラエルは人為的にガザに大規模な人道的危機を作り出すことによって、本来は政治的問題であるはずのものを「人道問題」にすり替えてえいます。」(p178~179)

 今現在行われている空爆、攻撃、封鎖による水、食料、燃料、電気、医薬品の欠乏そのものは「人道問題」であり、一刻も早い停戦と「人道物資」支援が望まれるが、それで終わりということでは絶対にない!イスラエルの違法な占領を終わらせ、パレスチナを解放すること…それは政治的な解決をやらなければならない。そのためには、世界がアパルトヘイトを行っていた南アフリカに対し「経済制裁」「ボイコット」等を行い、徹底的に批判・非難してきたことを、イスラエルに対して(そうすると、後ろ盾になっているアメリカや欧州の一部の国に対しても)行わなければならないだろう。それぐらい厳しい政治対決になる。

 岡真理さんは、京都大学での講演では、マンスール・アル=ハッラージュというイスラーム中世の神秘主義者の言葉
 地獄とは、人々が苦しんでいるところのことではない。
 人が苦しんでいるのを誰も見ようとしないところのことだ。

を紹介し、早稲田大学での講演では、ネルソン・マンデラの言葉
 パレスチナ人が解放されない限り、私たちの自由が不完全であることを私たちは熟知している。
を紹介して、講演をしめられた…

みんなでパレスチナ解放のため、声をあげていこう!

ガザとは何か(中編2)

 先日の記事のつづき
ガザとは何か20240314
 昨年10月7日に起こった攻撃の「前段」は、まだ書かねばならないことがある。
 2007年からガザの完全封鎖がはじまるのだが、それから何回もイスラエルから攻撃されている。最初が2008年12月末から、09年1月までの22日間、2012年11月に8日間、2014年7月の「五十一日戦争」、2021年に15日間の攻撃があった。その都度、国際社会はガザに”注目”するが、攻撃が終われば忘れ去ってしまう…その繰り返しであった。2008年の22日間の攻撃の後には、国連の調査団がガザに入り詳細な調査を行った。それによれば、双方に戦争犯罪があったものの、イスラエル側に圧倒的に戦争犯罪があったと結論づけている。にもかかわらずイスラエルの戦争犯罪について説明責任を果たすだの、責任者を処罰するだのということは一切行われず、忘れ去られたのである。
 2018年、3月20日の「土地の日」から5月15日まで、ガザで「帰還の大行進」が行われた。これはハマースを含むガザの様々な党派が呼びかけたデモで、パレスチナの旗をもってイスラエルとの境界付近に行進するという、基本平和的、非暴力のデモであった。しかしイスラエルはこのデモに催涙弾を打ち込み、スナイパーが参加者を狙い撃ちするということをやっている。イスラエルはわざと若い人の脚をねらい、国際法違反の、弾丸の中に沢山の小さな弾が入っているもの、着弾すると裂けて複数の刃物のようになる弾丸を使う…当たれば脚を切断するしかなくなるので、若い人たちに一生障害を負わせるために、そうした戦略を積極的にとっている。
ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義 [ 岡 真理 ]
ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義 [ 岡 真理 ]
 「帰還の大行進」は難民の帰還の実現、ガザ封鎖の解除、そしてトランプ米大統領がアメリカ大使館を占領下のエルサレムに移転する(国際法違反)ことに反対するという主張を掲げていたが、こうしたことは全く報道されなかった。「日本のメディアは、五月十四日のアメリカ大使館のエルサレム移転お式典を報じる、その報道の刺身のツマのように、移転に反対するパレスチナ人が、ガザで大規模な抗議デモを行っています。そこで死傷者が出ています、ということを伝えただけでした。」(p132)

 「停戦、そして忘却。
  こうやって私たちは忘却を繰り返すことによって、今回のガザ、この紛れもないジェノサイドへの道を整えてきたことになります。
 メディアも市民社会も、攻撃が続いて建物が破壊され、人が大漁に殺されているときだけ注目して、連日報道し、でも、ひとたび停戦すれば忘れてしまう。ガザの人々の生を圧殺する封鎖は、依然続いているにもかかわらず。パレスチナ人「だけ」が苦しんでいる限り、イスラエルがどれだけ国際法を踏みにじり、戦争犯罪を行おうと、世界は歯牙にもかけない。
 世界が認める、国際社会が認めるパレスチナ人の正当な権利の実現を、国際社会に向かってパレスチナ人が非暴力で訴えても、そのデモがイスラエルに攻撃されて死傷者がどれだけ出ても、世界にとってはどうでもいい。せいぜい、アメリカ大使館のエルサレム移転の報道のツマとして、ガザでそれに反対する抗議デモがあったと紹介すれば事足りるような、そういうものだということです。
 私には、この恥知らずな忘却と虐殺の繰り返しが、今、ガザで起きているこのジェノサイドをもたらしたものだとしか思えません。」(p133~134)


 この批判はメディアだけでなく、自分自身にも向けられていると岡真理さんは書いている。
「非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。」(p135)
 忘却は、悪なのである。
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あるみさんとは

あるみさん

左翼、時々テツ!ちょっぴり萌え系…白系共産趣味ブログであったが、どうも本人のスピリットは赤か黒らしい。闘争・集会ネタが主。主戦場は沖縄・辺野古。
 もとネタは、鉄道むすめのメットキャラ「金沢あるみ」さん。フィギュアを手に入れ、メットを白く塗ったりして遊んでいた。「あるみさん」つながりで「すのこタン。」も要チェック!
 「侵略!イカ娘」からはまったのは「ガールズ&パンツァー」…梅田解放区の隠れ「ガルパンおじさん」でもあるが、今は「はたらく細胞」の「血小板ちゃん」にハマり(おいおい)人間が朝の6時に起きれるか!という謎のコンセプトで生きている。

メールは、nishihansenあっとyahoo.co.jpまで(あっとを@に変更して下さい)
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